記憶のかけらー足元から/歴史
歴史を学ぶのは教科書からだけではない。地球上を歩いていると教科書からは伝わってこなかった歴史が足下から伝わってくる。
「銀の道」の出発地セビリアから2時間弱を歩くと、ローマ帝国都市跡イタリカの脇を通る。なんとあのローマ将軍スキピオが設立し、後にはローマ皇帝トラヤヌス、ハドリアヌス、テオドシウスの発祥の地となった。壮大な遺跡跡を彷徨い歩いていて、ふと足下に目をやると敷石に丸に十の字が刻印されていた。ローマ時代の石切職人の仕業が2000年の時を刻んできたのだろう。そういえば、日本の城の石垣にも同じような歴史が刻まれていた。
2015年5月22日 庶民の歴史 スペイン/Italica 「銀の道」
リスボンの中心部からテージョ側に沿って東に進む。エンリケ航海王子の500回忌を記念して造られた発見のモニュメントが出迎えてくれた。前の広場には大理石のモザイクで世界地図が描かれている。当然のことながら日本を探す。発見!
そこには”1541”というう数字が刻み込まれていた。ポルトガルによって日本が「発見された年」である。因みに、ポルトガル船が豊後に漂着した年だそうだ。
地図の全体像は後日。
2013年6月11日 日本の歴史を学ぶ ポルトガル/Lisboa after「ポルトガルの道」
ロゼッタストーンはロゼッタ近郊に要塞を建造するため建築資材として神殿から運び出されたのだそうだ。そして、ナポレオンのエジプト遠征の際にフランス軍兵士によって再発見された。その碑文を解明したシャンポリオンはフィジャックに生まれた。彼の生地はシャンポリオン博物館となっている。その近くのエクリチュール広場にはなんと巨大なロゼッタストーンが横たわっていた。
ここのロゼッタストーンはその迫力においては、大英博物館のそれを凌駕している。
2018年5月19日 古代エギプトとの出会い フランス/Figeac 「ル・ピュイの道」
一向宗の布教拠点として誕生し、武装宗教都市として発展した奈良県今井町を訪れた。周囲に濠と土居をめぐらせ、見通しの聞かない筋交の道路、九つの門跡等、嘗ての街のありようがしっかり残されている。
道路上には今井村を構成した六町の姿が刻み込まれていた。
記憶のかけらー足下から/アート
ミュージアムやシアターに出かけなくても、アートに触れることができます。街中を歩いていてちょっと足下を見た時、そこからアートが声をかけてきた。
マドリードの地下鉄駅アントン・マルティンから裏道のCalle de las Huertas(果樹園通り)を歩き、巡礼宿 に向かう。通りの突き当たりはプラド美術館や王立植物園である。かつては果樹園であったのであろう。床に金属文字で何か文章が書かれている。後日調べてみると国民栄誉の称号を受けた19Cの劇作家、詩人Jose Zorrillaの作品「ドン・ファン・テノーリオ」の一節であった。一時期この辺りで創作活動をしていたのか。スペイン文学に関心のある方であったらしばらくその場に立ち尽くしたのではなかろうか。
2014年6月29日 裏道の文学作品 スペイン/マドリード after「北の道」
ポルトガルのAveiroはイタリアの海港都市ヴェネツイアと同様、海を克服してき「潟」の街である。「ポルトガルのヴェニス」とも呼ばれている。その町外れのAveiro駅舎全面がアズレージョ。そして、そこに向かう約1キロの一直線の道の歩道には二色の石で描かれた抽象画が延々と続く。駅に向かう人はその距離を忘れて歩いているようだ。しかし、運河で見られた観光客の姿はほとんど見られない。
2013年5月31日 延々と続くアート ポルトガル/アヴェイロ after「ポルトガルの道」
アラブ世界との交流を目指したアラブ世界研究所は、セーヌ河畔に聳え立つ文化施設である。しかし、観光客はもっぱらジャン・ヌーヴェル設計の外壁を覆うユニークなパネルの鑑賞と、穴場的パノラマスポットの屋上テラスからのパリの街並みの展望に時間をを費やしている。私も、その一員であったが、私の関心は屋上に敷き詰められた鉄板に集中していた。図柄からアラブ世界の何かを表現していると思うがそれが何なのか。未だ解明できていない。
2018年5月6日 アラブに近づきたい フランス/パリ after「ル・ピュイの道」
丸の内仲通りを彷徨いていた時、歩道上のガラス帯が目に入った。そこには周りの高層ビルが映り込んで、一服の絵画を思わせる。とりあえず写真に収めて帰宅したが、どうも記録の写真としか思えない。いつか再訪して自分なりの感覚で撮影してみたいと思い続けている。
2019年10月4日 丸の内ストリートギャラリーもいいけど 東京都/丸の内 街歩き
栗田亘(コラムニスト)
日本人はどこに行ってもすぐにカメラを取り出して写真を撮る。そうじゃなくて、自分の目でよく見ろ、なんて人がいますよね。
野呂希一(写真家)
(中略)記憶に残そうとカメラを持たずに見るより、ものをもっとつぶさに見てからじゃないと、本当の写真は撮れないですよ。
記憶のかけらー足元から/巡礼
先週は足元を歩きの機能性から取り上げた。ところが意外に様々な情報も提供してくれる。今回は、巡礼者にとって最も重要な情報である道案内について紹介しよう。
サンチャゴ巡礼のシンボルはホタテ貝である。サンティアゴ・デ・コンポステラのあるガリシア地方がホタテ貝の名産地であり、巡礼を終えた証拠に食したホタテ貝の貝殻を持ち帰ったのが始まりとされている。又、ホタテ貝は「再生」を意味し、巡礼により「魂が生き返る」と言う意味を持つ。巡礼路には様々な方法でホタテ貝のサインが掲示されているが、街中では一定の間隔を置いて金属製のものが埋め込まれている。
2012年9月5日 脚でも見ながら スペイン/ Los Arcos 「フランス人の道」
巡礼者にとってもう一つの大事なサインは黄色の矢印である。目につきやすい視線の先にペンキで手書きされている。手書きは優しく行先を教えてくれる。ポルトガルの道のスタート地点は2Cに建立のカテドラル”Se”である。堂内でクルデンシャル(巡礼手帖)にスタンプを押してもらい堂の外に出る。さて、どちらに進むかと周りを見渡す。左の柱の足元に黄色の矢印が目に入った。歩を進める方向を指し示してくれた。
2013年5月3日 Ola ポルトガル/Lisboa 「ポルトガルの道」
フランスには主な巡礼路が四本ある。その一本はパリからボルドーを経由して「フランス人の道」に繋がる「パリの道」である。この道はあのシャルトルを通るのだが、普通の観光客にはほぼ100%知られていないのでなかろうか。大聖堂の正面入り口の前に立ち足元を見るとその証が目に入った。それにしてもこの取り扱いは・・・・
再会を心に別れを告げたが、コロナ禍もあり残念ながら果たせそうにない。
2013年6月13日 歩いて訪れたかった フランス / Chartres after 「ル・ピュイの道」
熊野古道は「紀伊山地の霊場と参詣道」の構成要素として2004年に世界遺産に登録された。その後、参詣道の整備は地元民によっての粛々と進められている。新しい案内標識も見受けられるが、複数県にまたがっているせいもあり、サンチャゴ巡礼路に見られるような統一感が見られない。又、心身共に歩き疲れたものにとっては手作り感が欲しいと思った。
2016年5月20日 あった あった 三重県/那智勝浦 「熊野古道/中辺路」
「 私は、見聞を広めるためでなく、迷うために旅に出た。」
記憶のかけら–足元注意
歩き旅には足元が大事であるが、周りの景色に関心が向くため一般に足元の記憶は薄いように感じる。私は空から地面まで満遍なく関心を及ぼしながら歩く。しかし、長い歩きで心身共に疲れを覚え始めると、自然と視線は地面に固定される。
スペイン北部カンタブリア海に面した港町ラレドの街を歩いていて、一寸視線を地上に移した時、思わず前のめりになりそうになった。なんと、路面が波打っているではないか。しかし、よく見ると表面は平坦である。舗石タイルの表面に波打った溝を掘り込み、歩行者にあたかも表面が波打っていると錯覚を起こさせている。こんなところまであそびを持ち込むスペイン人を憎めない。
2014年5月31日 足元にもアート スペイン/Laredo「北の道」
ヨーロッパの街中で歩道や広場でしばしばピンコロ石で舗装されているのを見かける。ポルトガルでは特に集落に入るとこの舗装面を歩かされる。ところが、多くの場合表面が十分に平滑に仕上げられていなくて、しばらくすると足首にダメージが生ずる。その時には路端の地道の部分に逃げ込む。生活している人たちはどう感じているのだろうか。でも、眺めている分にはアスファルトでは見られない心和む趣がある。
2013年5月19日 歩きにくくても ポルトガル/Barcelos「ポルトガルの道」
フランス南西部では時どき夜のうちに通り雨がある。地道の土が粘土質のため道路は泥濘状態となり翌日の朝の歩きには難儀する。いちいち避けて歩くのは面倒なので、泥道の中を進む。しばらくすると、なんとなく視線が上がったように感ずる。立ち止まって靴の裏を見ると数センチの泥が堆積し、ロンドンブーツ状態となっている。子供ごころに帰ってどんどん進む。
2018年5月31日 雨の後 フランス/Larressingle〜Montreai-du-gers「ル・ピュイの道」
熊野古道の伊勢路は石の道である。雨の多い地方のため、道路が崩壊しないようにと石で舗装されている。雨が降れば山道は川となる。石は苔むし滑りやすくなっており難儀する。しかし、長い歴史を経て整備されてきたため、その時代を反映した整備状態で、歩きにくさを忘れてその変化を楽しむことができる。
池内 車と歩きでは、何よりも目の位置が全く違います。それに、車に乗っていて目につくものは、宣伝されるスポットだけで、その合間は全然目に入らない。その合間がいいんですよ。めっけものがあるのは合間です。
記憶のかけら–日の入り
フランス、スペイン、ポルトガルは南欧と言われながら意外と緯度が高く、日の入りは5月で9時台、9月で8時台。一方、宿では巡礼者の疲れや翌朝の早朝出発を考え、9時消灯が暗黙の了解事項となっている。従って、屋外でじっくりと夕暮れショーを楽しむ機会は稀有である。運良く出会っても、同宿舎達と感動を共有できない。欧米人は日の出、日の入りに対して日本人のように特段の感慨を抱かない様である。
780kmの「フランス人の道」の過半を歩きマイペースで行動できる様になった。El Burgo Raneroという小さな集落の宿にベッドを確保し、明日はLeonに入り待望のガウディの「カサ・デ・ロス・ボディーネス」に出会う。その期待を胸に宿のホスピタレーロお勧めの「落日ショー」鑑賞をと6時前に出かける。小高い丘の上に一脚のベンチと子猫を連れた男性。前方に広がる湿地帯の向こうに数本の樹木。その上方には雲に覆われているものの青空が垣間見える。舞台は出来上がっている。男性がいなくなり自分一人となる。ベンチに座り途中のスーペルメルカードで調達した夕食を採りながら開幕を待つ。やがて、地平線の上部が赤く染まり開幕となった。景観が刻々と変化し、その様子が前面の水面に映し出される。そして、太陽は地平線に沈みショーは閉幕となった。時間は9時前であった。3時間があっという間に過ぎ去っていた。9時を過ぎた宿に帰りつき、キャップライトの光を頼りにそろりそろりと2段ベッドに潜り込んだ。
2012年9月16日20時20分 落日ショー スペイン/El Burgo Ranero「フランス人の道」
スペインとの国境の村Monsantoを訪れた。山の斜面にゴロゴロと転がっている大きな岩の間に住宅を造り込み居住している。”最もポルトガルらしい村”と言われている。山上にはたどってきた歴史を感じさせる城塞が残っている。日暮れ前に宿の屋上に上がった。前方の山に日が落ちてゆく。そして空が真っ赤に染まった。Ciel en feu火の空の出現であった。あっという間であった。
2013年6月4日20時49分 ミラクル後 ポルトガル/Monsanto after「ポルトガルの道」
しかし、なんと日没後も周りの空気の明るさは衰えず、どっしりと腰を据えた巨岩と赤い屋根の家並みの同居を楽しむことができた。
2013年6月4日21時13分 更にミラクル ポルトガル/Monsanto after「ポルトガルの道」
フランスでは日の出には出会ったが、正直日の入りに出会ったことがなかった。一つの理由としては「ル・ピュイの道」の前半はmassif Central中央山塊を横断する為、宿が谷間の集落にあることかと思う。しかし後半は比較的平坦な大農地の間を縫って歩く。宿は防衛上見晴らしの良い小高い山上の城塞都市にある。さらに考えると、どうも夕食時のワインのせいに行き着く。何しろ本場のワインが飲み放題なのである。アルバムを探ってみるとそれらしき一枚に出会った。因みに、黒い雲は夜の通り雨の前兆で、翌日の粘土質のぬかるみ歩きが待ち構えている。
2018年5月23日21時21分 Cele渓谷の夕焼け フランス/Pasturat 「ル・ピュイの道」
日本での日の入りについては何もコメントすることはない。横浜の三溪園を訪れた。11月末であったので全く期待していなかったが、思いもかけぬ三溪園の日の入りを拝むことができた。
2016年11月29日16時23分 初冬の日の入り 横浜市/三溪園
記憶のかけら–日の出
巡礼中は涼しいうちに距離を稼ぎたいとか、予約のできないスペインのアルベルゲでのベッド確保の為に日の出前に宿を出ることが多い。宿の消灯時間が午後9時の場合が多い上、疲れで熟睡できるので全く苦にならない。地平線から赤く染まった広大な空に向かって昇る太陽を独り占めすることができる。
セビリアを出立し「銀の道」もほぼ1/3をこなした。Casar de Caceresの宿を出て小高い巡礼路を進む。右手に天地を二分する地平線が延々と続く。空が赤く染まり始め、やがて太陽が顔を出した。日本で日の出といえば海や山からの日の出を思い浮かべるが、スペインでは地平線からの日の出である。単純だが雄大な日の出である。
2015年6月3日7時3分 地平線の日の出 スペイン/Casar de Caceres 「銀の道」
サラマンカに向かって北に進む。地平線に並んだ樹木からの賑やかな日の出に出会った。樹平線の日の出?か。
2018年6月8日7時 樹平線の日の出 スペイン/Fuenterroble de Salvatierra「銀の道」
「ポルトガルの道」を歩いた後、ポルトガルに引き返し、南下しながらバス旅を続ける。リスボン東方のアルト・アレンテージョのモンサラーシュを訪れた。翌朝エヴォラへ向かうバスを待つ間、バス停付近を彷徨いていた時偶然日の出に出会った。お隣のスペインの日の出である。この日の出は日本では経験できない地球規模の日の出であった。モンサラーシュは国境の街であった。
2013年6月7日6時39分 国境の日の出 ポルトガル/Monsaraz after「ポルトガルの道」
ザックを通り越して背中に暖かさを感じた。振り返ると背後に真っ直ぐ延びる道路D933の横から朝日が顔を出した瞬間であった。今日は「ル・ピュイの道」に別れを告げる日であった。心揺さぶられる見送りであった。
2018年6月9日6時29分 最後の夜明け フランス/Larceveau「ル・ピュイの道」
熊野市は広大な熊野灘に面した街である。ユースホステルの管理人の勧めで浜辺に出て日の出を迎えた。釣り人ひとりと水平線の単純な構図での日の出である。顔を出した太陽は周りのスケール感からなんとなく小さく見える。
2016年11月12日6時31分 熊野灘の日の出 三重県/熊野市 熊野古道「伊勢路」
しかし、水面を離れた太陽はしだいに大きさを増し、海面を赤々と染め上げていった。海外で出会った地平線の日の出と対をなす日の出である。
記憶のかけら–雪
昨日、午後から降り出した雪を見ていて、明日は雪道を歩けると楽しみにしていた。しかし、路上の雪は車で踏み締められ、轍部分は街路灯を反射した氷道となっている。スリップしない様に雪の残っている部分を歩く。なんとか転倒なしで無事ウオーキングを終えた。
歩いている間中、あのフランスでの雪中行軍が蘇ってきた。
前日のフランス人女性の「明日は雪」を信じられなかったが、朝窓の外はうっすらと雪景色であった。7時に宿を出る。巡礼路最難所”Aubracの荒野越え”である。標高1,300mの広野は一面季節外れの雪景色。見惚れているわけにゆかない。積雪は20〜30cmではあるが、歩行コースは隠れた上、周りには人影はない。装備は夏装備であり、ガイドブックの地図はアバウトである。正直、頭に不安がよぎった。14時過ぎに、なんとか次の宿に辿り着いた。最近は珍しくない季節外れ気候を海外の山中で経験した。
2018年5月14日 五月の雪中行軍 フランス/ Aubrac 「ル・ピュイの道」
荒野に入った所で冬と夏に撮影したと思われる写真を見かけたが、初夏の5月にまさかの冬並みの経験をした。
セビリアからバスでグラナダに向かう。中国人の女性と話をしていた時、前方に山頂が白い山並みが現れた。シエラ・ネバダ山脈である。地上での暑さとアフリカを目の前にしている事、そして長旅の疲れから、うっかり白いのは石かと言って笑われた。調べると、シエラ・ネバダは「積雪のある山脈」を意味し、最高峰は富士山並みの3,480mで亜寒帯気候とのことである。翌日アルハンブラ宮殿を訪れた後、11世紀にイスラム教徒が築いた街並アルバイシンの展望台からグラナダの街を一望した。そこにはグラナダの街を見守るように白い山並みが横たわっていた。因みに、アルハンブラの水景は、遥々シェラ・ネバダの雪解けの水がもたらしているのだそうだ。
2012年10月4日 歴史を見守る山脈 スペイン/グラナダ after 「フランス人の道」
ところで、ポルトガルでは雪には出会わなかった。しかし、私の訪れた北部のスペイン国境近くの山間部では冬季に積雪が見られるそうだ。
若葉の熊野古道を歩いた後、紅葉の古道も歩いてみたいと11月に高野山を起点とする「小辺路」を歩いた。赤、橙、黄色とまさに紅葉の真っ盛りで、しみじみと秋を感じる歩きとなった。四日目に二百名山伯母子峠を通りかかった。側の山小屋の扉の下方がギザギザに抉れていた。熊の仕業と言う。そういえば”熊に注意”を見かけた。私は旅は峠越えの旅であえて山頂は敢えて目指さないが、下山してきた人の「眺めが素晴らしい」に、頂上の1,246mに寄り道をした。そこでは360度の眺望はともかく、紅葉と霧氷のコンビネーションにしばし見惚れていた。
2016年11月9日 紅葉×霧氷 奈良県十津川村「熊野古道/小辺路」
人間の歴史は”記憶” であり、それが何重にも積み重なって文明というものができる。電子情報はキーひとつで一瞬にしてゼロに変わる可能性がるわけで、どんなに蓄積されようとも”記憶”にならない。歴史にならないというのが僕の考えです。(池内)