出会った橋ール・ピュイの道-17

6月8日、標高100m前後を登り降りする道を順調に進む。この辺りは農業に適しない土地なのか、放牧地が大きく展開している。その中に小さな集落があちこちに散在している。個人的ではあるが、この風景にはいかにもバスク地方に入ったと実感させられる。

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フランスには主要な巡礼路が4本あり、そのスタートはパリ、ヴェズレー、ル・ピュイそしてアルルである。ここにきて前3本の巡礼路が合流し、St-Jeanでスペインを歩く「フランス人の道」に接続する。

標高300mとこのあたりで最も高い地点に立つと、大きく展望が開け脈々と連なるピレネー山脈が一望の元に楽しめる。値千金である。

f:id:peregrino:20210616185625j:plain連なる山並みに頭を出す一峰が目に入る。周りには日本によくある案内図が見当たらない。山頂制覇派なら気になるだろうが、私は峠越え派なのでスペインに入るにはどこを抜けるのかが気になる。と、暫くの間思いを巡らす。

宿の所在するOstabat/Izuraに入る。バスク地方はフランスとスペインにまたがっており、バルセロナのカタルーニア地方同様歴史的に独立志向が強い。そこで、道路サインなどもバスク語併記である。

建物入り口の楣(まぐさ)上には石造の看板らしきものが掲げられている。文字の解釈は置くとして、今夜お世話になる宿の建物の絵柄等で読み解きをする。

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絵柄から見るとかつては肉や魚を商っていたらしい。数字の1749は創業年であろう。そうするとこの建物は築260年を超える江戸時代のものであろう。左右の日本の卍様のシンボルは本などで見たことのあるバスク十字だ。調べてみるとバスク地方以外でも見られ、色々な意味合いが込められているそうだ。この地方ではバスクの象徴とされ、一般的には繁栄のシンボルとして用いられて来たとある。

バスクベレーを被った宿の主人はいかにもバスク人らしさを感じさせる。

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我々がバスクベレーを被っても果たして様になるだろうか。

6月9日、パリまで足を伸ばすため早朝6時前の薄暗い中、同室のベッドの中にいるフランス人に別れを告げ一人宿を後にした。

宿を出てすぐにそのミステリーさが私を魅了してやまない”緑の穴”が待っていた。今までは入り口であったが、今回は最後のトレールの為か出口を感じさせられた。

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真っ直ぐに伸びる自動車道に出て先を急ぐ。突然背中に温かいものを感じ後ろを振り向く。前方の道路の切れたところに真っ赤な朝日が顔を出した瞬間であった。

f:id:peregrino:20210614160155j:plain周りの空気が真っ赤に染まった。暖かく美しい見送りであった。

そして、牧草地の中からは日本では見慣れない風体の羊もじっと見送ってくれた。

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こんなところまで来て日本に出会うと、懐かしさと共にその頑張りに言葉にならないエールを送る。

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そして、ついにSt-Jeanのサンジャック門が目の前に現れた。サンチャゴ巡礼の守護聖人ヤコブはフランス語ではSt-Jacquesサンジャックである。

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信仰深い人、頑張る人は「フランス人の道」を790km先の聖地Santiago-Conpostelaへと歩き続ける。一方、私は6年前に四国遍路に続いてサンチャゴ巡礼に挑戦と、ここから歩き始めた。今回はフランスでの源を極めんとの歩きだったのでここをゴールとしていた。我年齢から考えると、多分最後のサンチャゴ巡礼になると考えながら歩いた。

最後の頑張りが効いた為か26kmの距離を約5時間で歩き、予定していた時間を1時間半短縮した。

今回の巡礼は約800km、32日間の歩き旅であった。感慨深い一人歩き旅であった。

続く

 

「最悪の事態」に備えてさまざまなプランを用意するということを日本人は嫌いますけれど、それはかなりの程度まで日本人の民族的奇襲だと思います。

(中略)

起る確率の低い破局的事態については「考えないことにする」。それが本邦の伝統で

す。

  「人口減少社会の未来学」 内田樹編/文藝春秋