出会った橋ー北の道-1

長年のあこがれがちょっとしたキッカケで現実のものとなったポルトガルを反芻していた時、その時出会った巡礼者と交わした会話を思い出した。

「今まで幾つかの巡礼路を歩いてきたが、"北の道"が最も印象に残っている。特別何がと言うものは無かったのだが。」

来年もといった計画は持っていなかったが、あの言葉を確認してみたくなった。「北の道」 いついては身近に全く情報が無かったのでアマゾンで探してみた。見つかったのはドイツ語のガイドブックだけであった。英語版が無い上にドイツ語版だけという事は?仕方なく取り敢えず取り寄せた上辞書と首っ引きで読み進む。名前ばかりの第二外国語であったが何とか全体像がつかめた。フランスとの国境の街スペインのIrunをスタートし、大西洋沿いにひたすら西に進み830km先のSantiago de Compostelaに至る。途上には、サン・セバスティアンゲルニカビルバオがある。

 

といった事で、2014年5月22日にはIrunの地に立っていた。取り敢えずフランスへのご挨拶と散歩に出かける。この辺りはご存知のようにバスクと言う一つのまとまりであったが、現在はビダソア川を国境として 西仏二つの国に分かれている。そこに架かる橋英名Bidasoa Bridgeは西名Puente Internacional de Santiago,仏名Pont Saint-Jacouesである。しかし、スペイン側から進むと橋の真ん中にはバスク語でフランスの地方名がバスク語RAPURDIと標示されている。

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フランスからスペインへと進むと、フランスの町の出口を示す標識にはフランス語とバスク後の併記。その奥にはEUのスペインを示す青い標識。

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翌日、小雨の中500m超の山越えで美食の町San Sebastianに向かう。身体が慣れていない事もあり、予想通り辛い1日であった。その後、右手に大西洋を望みながらバスク地方進むが、相変わらず天候不良で泥濘む山道で転倒を繰り返す。どうせ転ぶならと重心をやや後ろに置き、ザックを下敷きに転ぶ。

5月25日にDebaという町の学校を改修した組合運営の宿に到着する。先着の宿泊者がレセプションはエレベーターで降りた下の街の 観光案内所Turismoだと教えてくれた。宿の向かいは崖で海に向かって低地に家並みが続いている。そしてガラスの塔とそこに渡るガラスの橋?が見える。

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教えられたエレベーターのようだ。雛には稀な建造物である。無事ベッドの指定を受け、鍵を受け取り再度エレベーターで上の宿に戻る。一夜の宿りを確保できた。

 

 翌26日の泊まりは修道院。色々な宿に泊まったが修道院は初である。

27日にあのGernikaの町を通るが、徹底的に破壊された後の復興の為か、当時の惨劇に想いを致す事は出来なかった。

 

28日にはBilbaoに入った。嘗ては鉄鋼・造船の街として栄えたが、重工業の衰退をグッゲンハイム美術館の招致を中心に観光都市として甦えった。

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美術館は素晴らしかったが、ここでは幾つかの興味深い橋に出会った。宿からネルビオン川を渡り美術館に向かう。渡る橋は直線でもと思われるが、取り付け道路との関係からか緩やかな弧を描く。歩くにつれ前方に展開する景観の変化を愉しめる。

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さらに進むと今度の橋はギクシャクと折れ曲がっている。

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次の橋は橋脚をキャンバスに見立てて絵が描かれている。

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そして、更に進むと屋外に置かれたアート作品を思わせるスビスリ橋。歩行者専用のタイドアーチ橋で大きく湾曲し、床にはガラス製タイルが使われている。

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橋の袂には磯崎新氏設計の磯崎ゲートが立ち上がり、橋と一体となって ランドマーク的景観となっている。

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しかし、アクロバチックな構造に専門家から「彫刻のおもちゃのようだ」とも言われている。

それにしても、スペイン人は天真爛漫である。

 

ヨーロッパの国境は、膨張主義の戦争の結果引かれた線であり、ナショナリズムを強化し、平和条約を軽蔑したことの帰結である。だから国境線と一致しない国々・言語がこんなにたくさんあるのだ。

                 「旅の効用」 ペール・アンデション/草思社