出会った橋ー銀の道–3

6月1日、Aldodescarの宿を出て1人歩くが、周りに見えるのは牛ばかり。北の方では水量は少ないものの水路を渡る橋であったが、この辺りでは雨季以外は窪地に架かる橋である。

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 9時過ぎにCaseresに到着する。ローマ人が築き、8Cにイスラム教徒が侵入し、レコンキスタの時代に城壁の中に数多くのゴシック様式の貴族の邸宅が建てられた。

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今では「エストマドーラの宝石」と呼ばれている。人影の少ない細い路地を一人でそぞろ歩き、中世の雰囲気に浸りながら時間を過ごす。そして、後髪を引かれる思いで街を後にした。

 

6月3日,珍しく湖に出会う。そこから日本の川が出ており橋を架橋中であった。橋の種類は分からないがアクロバティックな姿に暫く見とれていた。

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6月4日、ここ数日イタリア人と同行していた。40度を越す暑さとお互い頼り合う気持ちから進路のエラー。宿まで約1kmであったが異常な暑さに、タクシーを呼ぶ事に異議を挟むものはなかった。  宿のあるGalisteoは城塞の街で、城の上からは明朝歩く巡礼路が眺められ、ローマ時代のものと思われる橋が浮かび上がっていた。

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翌朝、6時過ぎにその橋を渡った。サマータイムの為陽は昇っておらず、周りの家々には灯りが灯っていた。

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途中、ローマ遺跡のGaparraを通る。ここには遺跡の脇にローマ街道がある為、凱旋門マイルストーンが残されている。

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遺跡は相当痛んでいて今では街道は歩ける状態では無かった。

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この日の行程は、珍しく宿が巡礼路から7kmも外れており、 電話で宿に車の迎えを依頼するか止む無く歩いて向かうか、それとも7km以上歩いて次の宿に向かうかである。私のスマホは電話が使えないので歩きを覚悟していた。しかし、前後して歩いていたイタリア人と運良く出会い、彼の呼んだ宿の車に同乗できた。

 

6月7日の宿のある村では聖母マリアの祭りがあるらしく、道路脇にマリア像や祭壇が並んでいる。宿で休んだ後、教会の牧師を先頭に村人こぞってロバと共に練り歩く行列に村人に混じって加わった。

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宿の脇にはローマ街道が残されており、その断面構造が見える様に一部が切り取られている。小さな村の小さなmuseumとなっていた。

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 つづく

 

「他者の刺激を受ける」という意味では、ブログも励みになるかも知れません。

ブログは誰かに読んでもらうことを前提に書いているからです。その意味では、日記や備忘録とは持つ意味が決定的に異なります。

(中略)

しかもブログには、あなたが書き込んだ意味や見解に対して、ほかの誰かが質問や意見をぶつけてくることもあります。場合によっては「何が言いたいのかわからない」といった反応もあるでしょう。

      「伝えるちから」  池上彰/PHPビジネス新書

 

所用で新宿に出かけチョット足を伸ばしギャラリー巡りをした。時節柄、人出の少ない時間を選んだ。

六本木はFUJIFILM SQUEREでの大竹英洋写真展「THE NORTH WOODS 生命を与える大地」。

ノースウッズは米加国境付近から北極圏にかけての地域で、原生林に生息する野生動物を追い詩情あふれる映像作品に仕上げている。右上の写真画面が印象に残った。狙ったのは川ではなく真ん中あたりの黒い点の老いたバイソン。舞台は原生林ではなく原野である。

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東京ミッドタウンから地下鉄の駅に向かう途中で小さな秋を見かけた。

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銀座に移りソニーイメージングギャラリー銀座の「ソニーワールドフォトグラフィーアワード2020作品展」。興味を覚えた作品は

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ロシアがソビエト時代、市民が世界に触れる機会が無かった。その為、その土地の文化的伝統に基づく独自の美意識に頼ってガーデンハウス建てた。それらを写真に収めた作品である。

次いで、ギンザ・グラフィック・ギャラリーの「いきることば つむぐいのち 永井一正の絵と言葉の世界」。言葉が伴う事によりイメージが拡がってゆく。何処かで出会ったと思われる作品も

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中央の絵には「いのちを大切にするということは 今を大切に生きるということ。」 

興味を覚えた方は、「いきることばつむぐいのち」永井一正/芸術新聞社をどうぞ

 

人混みの中を歩く銀座は・・・・・・・少しばかり寂しさを抱きながら歩いた。

 

出会った橋ー銀の道–2

Meridaはローマ時代以降イベリア半島の東西、南北を繋ぐ要衝の地で、「小ローマ」と呼ばれ数多くのローマ時代の遺構が残されている。圧巻は紀元前に築かれたローマ劇場で、舞台後方には大理石列柱が建ち並ぶ。毎年夏には古典演劇祭が開催され現代にも生きている。

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 その隣には剣闘士の闘い等各種のイベントが模様された円形劇場が広がる。映画「スパルタカス」の戦車競技を思い起こさせるローマ競技場も残されている。アテネアクロポリスには及ばないものの荘厳な佇まいのティアナ神殿も。・・・・

そして、遺跡跡の上に建設された国立ローマ博物館にはイタリカで感動を覚えた多くのモザイク画が壁面に移設されていた。床として見るのと違い向かい合って前面に立つと、全体像を一望できじっくりと鑑賞できる。多分、何らかの物語りが表現されているのであろうが、残念ながら私の知識の範囲ではそこまでの理解には及ぶ事ができなかった。

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更には、地から立ち上がる壁面の一部と思われる遺構がここが遺跡跡である事を語りかける。

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市街地を外れたところには、風化しているもののお約束のローマ水道橋の橋脚が屹立している。長きに渡ると風雨?に耐えてきた時間をひしひしと感じる。

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子育ての地として毎年渡ってくるコウノトリ達の格好の場として今も生きている。

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これまで見てきた白っぽい大きな石で築かれたものと異なり、レンガを思わせる赤っぽい水道橋は晴れ上がった青空の下で晴れやかな姿を見せてくれた。

翌日、早朝に朝焼けに浮かび上がる水道橋を眺めながらMeridaに別れを告げた。

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ローマ時代の遺跡と言えばまずローマが思い浮かぶが、周りに観光客が動き回っているもののここには"私だけのローマ帝国"を夢想する時間を与えてくれたMeridaであった。

 

長引く閉じこもり生活に風穴を開けようと上野のお山に出掛けた。芸大で開催されている藝大文化財保存修復センター企画の「日比野克彦を保存する」と題する展示のギャラリートークに参加した。日比野氏は現代アーティストで現在は藝大の美術学部長である。氏についてはテレビ等で見かけることはあるが、氏の作品に特段の関心を持っているわけではない。ところが、外出動機から参加者募集に応募したにも関わらず、申し訳なくも参加者25名に選ばれてしまった。氏のアトリエのある渋谷のマンションの建替に伴い 、失われる空間内の作品、画材、生活用品、壁の落書き、更にはマンション更には渋谷の街、ひいては氏そのものの保存の対象と捉えた展示企画であった。氏の作品はほんの一部という余り例を見ないものであった。トークは興味深いものであり日比野氏はへの認識を新たにしたと報告させていただく。

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東京新聞に載った銀杏並木の写真に惹かれ、地下鉄二駅先ので光が丘公園に出掛けた。散り始めた黄色のイチョウの葉に晩秋を実感できた。しかし、へそ曲がりの私には晴れ上がった青空の下で地上に映し出された樹木の影が強く印象に残った。

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区の主催する65歳以上の高齢者を対象とした講演会に出掛けた。講演者は前日に83歳になったと言うご存知の養老孟司さん。年齢のせいか、新型コロナ疲れのせいか、それとも人気者ゆえの相次ぐ講演会の為か内容はもう一つであった。運動不足で睡眠不足の私にとって時々心地よい子守唄?になりかけた。

 

出会った橋ー銀の道–1

紀伊国屋書店でのちょっとしたキッカケでサンチャゴ巡礼「フランス人の道」に出かけ、さらなるキッカケに「ポルトガルの道」,そして「北の道」へと予定を越えた歩き旅に誘い出された。

2014年の暮れ、写真を見ながらそれまでの歩き旅を振り返っていて、突然Salamancaで見かけた「銀の道」を示す黄色の矢印が思い浮かんだ。そして、あの道を歩けば何となく続いてきたサンチャゴ巡礼に、一区切りつけられると思い至った。

アマゾンで入手したガイドブックは今回もドイツ語であった。この巡礼路は有史以前から羊飼いたちが踏みならした道で、古代ローマ時代に主要な交易路となった。途上にはローマ帝国の遺構が点在している。スペイン北部で採掘された銀を輸送したことから"銀の道"と呼ばれるようになった。

2015年5月21日,二度目のSevilla。市街地北部に面白いものがあると知り出かけた。  ローマ時代の住居跡の上空に巨大な木製のモニュメントが浮遊する。

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エレベーターでモニュメントの上に上がり、遊歩路を歩きながら360度展開する眺望を愉しむ。まるで雲の上にかかる橋を渡り歩く感覚を覚える。

 

 Sevillaを後にし、2時間近く歩くと左手に紀元前に築かれたローマの植民都市の遺跡Itaricaが現れる。世界史の授業で聞いたトラヤヌス帝、ハドリアヌス帝が生まれた町だそうだ。こんな辺境の地から皇帝が出るローマ帝国は私の想像力を超える。多くの遺構の中でも床に描かれた鮮明なモザイク画が印象的であった。

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巡礼路は柵で囲まれた放牧地を縫いながら続く。牛、豚、羊、山羊様々であり犬が管理している。

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土地が痩せているため放牧地を抜けても人影が見当たらない広大な荒野が続く。40度を越える強い日差しの中を一人黙々と進む。

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5月30日,ゴールは紀元前ローマ帝国の属州ルシタニアの州都として建設されたMerida。現存している多くの遺構をじっくりと愉しみたいと、歩きは約15kmで10時過ぎには街の入口のローマ橋が見えてきた。

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連なる不揃い感のある橋脚アーチがホッとさせる。ローマ帝国の植民都市は防御のためか大きな川の側に建設され、橋のたもとにはアルカサバ(城塞)が建設されている。橋は歩行者専用であるが、整備が行き届いているせいか、歴史の趣きが感じられない。

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宿に直行するが午前の為か入口のドアは施錠されている。ドアをノックするが反応はない。通行中の人に事情を話し電話をかけてもらった。すると管理人がドアから顔を出した。外出したいと言うと施錠後に入口脇の郵便受けに入れておけと鍵を渡された。アバウトである!

 

「創造というのは記憶である」とは映画監督の黒澤明が好んで使っていた言葉である。彼は著書「悪魔のように細心に、天使のように大胆に」で次のように語る。

「自分の経験やいろいろなものを読んで、記憶に残っていたものが足がかりになって、何かが創れるんですから、無から創造できるはずがない。だから僕は若い時、ノートを片方に置いて本を読んだものです。そこで感じたもの、感動したことを書き留めていく。そういう大学ノートがずいぶんあって、シナリオで詰まるとそれを読んで書く。するとどこかに突破口がある。セリフ一つについてもそこからヒントを得て書いていった。」

     「光の教会  安藤忠雄の現場」  平川 剛/建築資料研究所

 

 

出会った橋ー北の道-3

フランス国境の町Irunをスタートし32日830kmの「北の道」を歩き終え、6月23日にサンチャゴ大聖堂前のオブラドイロ広場に立った。後は例によってバスによるスペイン放浪の旅である。今回はMadridを中心に周辺の街を巡る。

6月24日ーアラゴン王国と共にスペイン統一を成し遂げたカスティーリア王国の首都Valladlid。

6月25日ースペイン最古の大学のSalamanca。

6月26日ーイスラム教徒との戦いの最前線であった中世の城壁に囲まれた城塞都市Avilla。

6月27日ースペイン帝国の黄金時代を象徴する王室の霊廟を兼ねる修道院のEl Escorial。

6月28日ー「アランフェス協奏曲」そして王家の保養地Aranjues。マヨール広場が仮設の闘牛場に変身するアニス酒とニンニクの里Chinchon。

6月29日ー美術館巡りのMadrid。

6月30日ー西ゴート王国の首都、イスラム教徒の支配、スペイン首都。「16世紀で歩みを止めた街」

Toledo。

7月1日ーラ・マンチャの風車の村Consuegra。

7月2日ーローマ人が築いた巨大な水道橋のSegovia。

まるで観光旅行ですが、時間に囚われず歴史を背景にマイペースで歩き回った。

 

Salamancaは古代ローマ帝国イベリア半島に進出した際の移動の途上に築かれたが、その痕跡は街の南側のトルメス川に架かるロマノ橋以外には見当たらない。背後に12世紀に建造されたロマネスク様式の旧カテドラルを控えた姿に2000年の時の流れを感じた。

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たもとの黄色い矢印は巡礼路のサイン。調べるとアンダルシアのSevillaから北上する巡礼路「銀の道」である。知らず知らずスイッチが入った。

 

Toledoには以前勤め先の特別休暇を利用して訪れた。時間と行動に制約のある旅であった。今回は1日たっぷり街中をさまよい歩ける。写真で見た三方をタホ川に囲まれた城塞都市の全貌を、直接視覚に収めたいと川沿いにサン・マルティン橋まで歩く。かなりの距離であったが、それに充分に見合う歩きであった。

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橋を渡って街に入るが手前のゲートをくぐると中世の街への誘いが感じられ、あの独特の作風のエル・グレコのの絵画が目に浮かぶ。

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Segoviaのバスターミナルから歩いて行くと前方にローマ水道橋が立ちはだかる。紀元1世紀頃ローマ人が建造したもので最も高いところで高さは約28m。

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アソゲボ広場に入り左右に目をやるとそのボリュームに圧倒される。これまで幾つかの水道橋に出会ったが、水道橋と言えばSegoviaと言われるだけのことはある。

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近寄って見ると積み上げられた石はあまり綺麗に加工されていないし、隙間には接合材を使われていないとの事。地震の心配がないと、我々日本人が不可能と思うことを可能にさせるとつくづく感じ入ってしまう。

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そして、日差しの強いラテンの地においては、虚の存在感が強く訴えかけてくる。

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白雪姫の城のモデルとなったアルカサルは高台の突端に屹立している。しかしながら、私はその塔の上から見下ろした時、荒野の中にポツンと佇む多角形の建物に心を惹かれた。

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13世紀にテンプル騎士団により建てられたラ・ベラ・クルス教会との事。特段の見所は無いらしく周辺には人の姿は見えない。気になり高台を下りそこに向かう。八角形のシンプルな礼拝堂の中には数人の観光客がいるだけ。

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ベンチに腰掛け目をつむっていると、長旅の疲れのせいもあるのか何となく気持ちが安らいできた。しばしの瞑想の後、穏やかな気持ちに包まれながら教会を後にした。

 

45日間の長くて短い旅であった。

 

都市が空間的な存在なのは、それが同時に時間的な存在だからであり、私たちは都市を、空間的であると同時に時間的な場所の連なりとして経験しています。もっと平たく言うならば、私たちが経験する都市には、さまざまな異なる時間が空間化されて積層しています。 街歩きをするということは、その異なる時間の間を移動していくことであり、私たちが充分に敏感であるならば、同じ一つの地域の街歩きにおいても、そこに重層するいくつもの時間とその切れ目を発見していくことができるのです。

            「東京 裏返し  社会学的街歩きガイド」 吉見俊哉/集英社新書

 

テレビでは  " 各地で熊の被害"    "ホテイアオイ繁茂で緑一色の川面"       

ロングトレイルでしばしば出会った  "熊の被害に注意"       幸か不幸か対面はしなかった。

南フランスのぶどう畑も麦畑も緑一色であった。

今夏  我が家のガス給湯器の上にハクビシンが住み着いていた。警察が保護したが搬送中に死亡!

そして、今朝のウオーキングコースにセイタカアワダチソウ。元気一杯!

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四国の遍路道に咲く菜の花やスペインのひまわり畑の記憶が蘇る。

 

 

 

出会った橋ー北の道-2

5月29日,ビルバオ川の右岸を河口に向かって進む。一時間ばかり歩くと前方に川を跨いで鉄骨のゲートが出迎える。ビルバオ出身のエッフェルの弟子が設計し1893年に完成した世界初の運搬橋のビスカヤ橋である。嘗ては産業都市として栄えたビルバオに出入りする船の運航を妨げないとして考えられた橋である。今でも現役であるが世界遺産として観光資源にもなっている。

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約45mの高さの橋桁から鉄のワイヤーで吊り下げられたゴンドラが人や車を載せて対岸に往復する仕組みである。現在でも重要な交通路として機能しているのか24時間運航されている。

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エレベーターで橋桁の上に上ると歩いて対岸に渡れる。展望台として観光客を集めたかったのか。因みに現在ゴンドラは€0.40であるが、ここに上ると€8も取られる。

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この橋をモデルとして世界各地に運搬橋が建造されたとのことである。しかしながらこの類の橋に出会ったことは無い。日本では同じ目的として1940年建造の勝鬨橋等の開閉橋がある。面白い工作物に出会えた。

 

私が出会ったノンフィクションミステリー。巡礼路は対岸の左岸に続く為、橋の手前の渡し船で左岸に渡る。バルで朝食を採った後にtourismoにバックパックを預け、上部の橋桁の上を行き来しながら眺望を楽しんだ。1時間ばかりの滞在の後 に 荷物をピックアップし 、ビスカヤ橋を後にし巡礼路を先に進んだ。ところが、いくら歩いても帆立貝のサインが目に入らない。出会った地元の人に尋ねると巡礼路は対岸だと言う。橋まで引き返しtourismoの人に再確認した。スペインでは時としてこの再確認が欠かせない。分からないと言わないことがスペイン流のおもてなしである?橋を渡った向こうの道行けと言う。取り敢えず対岸(私は右岸との認識) に渡り、言われた道を進みやっと巡礼路に復帰できた。歩きながら何度も思い返したが???

帰国後、地図を見ながら何度か思い返すが、川を渡ったのは渡し船での左岸への一度との記憶しかない。出来る事ならもう一度 ビスカヤ橋を訪ねてみたい。

 

6月3日街全体がナショナルモニュメントに指定されている宿泊予定のSantillana del  Marに到着する。街全体がナショナルモニュメントに指定され中世の面影を色濃く残す町である。しかし、ごった返す観光客にうんざり。宿 に荷を置き世界史の授業で出会ったアルタミラ洞窟へ向かおうとしたが、宿のチェックインが4時だと言う。明日のガウディとの出会いとアルタミラのレプリカの壁画を秤にかけ街を後にした。

 

 前日、約10km多く距離を稼いだおかげでComillasのガウディ「気まぐれ亭」エル・カプリチョには早朝訪問できた。「フランス人の道」のAstorga,Leonに次ぐ バルセロナ以外でのガウディとの出会いである。昨日の英断のお蔭で管理人のガイド付きで2時間に渡り独占することができた。

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6月12日,計画より1日先へと進んでいることもあり約20kmを予定。色々考え事をしながらハイキング気分で歩いていたら、サインを見過ごしていたらしくルートを外れ海岸に出てしまった。地元の人に聞き一山超えて無事巡礼路に復帰できた。時間的に余裕があったこともあり焦りは感じなかった。

高架の自動車道と歩行者専用道が並行して走る河川敷を進む。地面の上を歩いているが、雨季には高架の歩道橋を歩くのであろう。しかし、子供の工作のような橋脚?を眺めているとどうも心もとない。地震の心配が無いので取り敢えず荷重を支えられれば良しとするのか。

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全国的に高速道路網が整備され、こうした北辺の地でも巡礼路は高速道路と絡み合いながら続く。構造がスレンダーなせいも有り、全く威圧感を感じさせず無理なく自然の中に溶け込んでいる。

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海岸沿いに進んでいた巡礼路がRibadeoでSantiago de Compostelaに向かって内陸に向かう。大きな川の河川敷で餌を啄ばむ鳥達の先に橋が見えてきた。遠目には川のスケールに不釣り合いな姿をしている。四国の遍路道で出会った越流橋の様に見える。

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近づいて橋を見上げると至ってシンプルな構造である。いつものことながら心もとない。それはそうと、ものを裏側から見ると意外なモノが見えてくる。

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Arzuaで「フランス人の道」に合流する。翌日6時過ぎに宿を出る。サマータイムを実施しており日本で言えば5時過ぎである。前方の橋上、朝霧の中を先行する巡礼者が見える。

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何でも無い風景であるが印象に残った。2年前に歩いた時の記憶にはこの橋は浮かんでこない。

 

これも随分前のはなしだが、前の晩にテレビで見た野球の試合を、朝必ずスポーツ新聞を買って確かめる人を、勿体ないじゃないの、お金と時間の無駄使いだと言ったことがあった。

その人は、私の顔を見て、

「君はまだ若いね」

と言った。

「野球に限らず、反芻が一番たのしいと思うがな」

旅も恋も、その時もたのしいが、反芻はもっとたのしいものである。ところで草を反芻している牛は、やはり、その草を食べたときのことを思い出しながら口を動かしているものであろうか。

                「向田邦子ベストエッセイ」  向田邦子 ・向田和子編/ちくま文庫

 

出会った橋ー北の道-1

長年のあこがれがちょっとしたキッカケで現実のものとなったポルトガルを反芻していた時、その時出会った巡礼者と交わした会話を思い出した。

「今まで幾つかの巡礼路を歩いてきたが、"北の道"が最も印象に残っている。特別何がと言うものは無かったのだが。」

来年もといった計画は持っていなかったが、あの言葉を確認してみたくなった。「北の道」 いついては身近に全く情報が無かったのでアマゾンで探してみた。見つかったのはドイツ語のガイドブックだけであった。英語版が無い上にドイツ語版だけという事は?仕方なく取り敢えず取り寄せた上辞書と首っ引きで読み進む。名前ばかりの第二外国語であったが何とか全体像がつかめた。フランスとの国境の街スペインのIrunをスタートし、大西洋沿いにひたすら西に進み830km先のSantiago de Compostelaに至る。途上には、サン・セバスティアンゲルニカビルバオがある。

 

といった事で、2014年5月22日にはIrunの地に立っていた。取り敢えずフランスへのご挨拶と散歩に出かける。この辺りはご存知のようにバスクと言う一つのまとまりであったが、現在はビダソア川を国境として 西仏二つの国に分かれている。そこに架かる橋英名Bidasoa Bridgeは西名Puente Internacional de Santiago,仏名Pont Saint-Jacouesである。しかし、スペイン側から進むと橋の真ん中にはバスク語でフランスの地方名がバスク語RAPURDIと標示されている。

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フランスからスペインへと進むと、フランスの町の出口を示す標識にはフランス語とバスク後の併記。その奥にはEUのスペインを示す青い標識。

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翌日、小雨の中500m超の山越えで美食の町San Sebastianに向かう。身体が慣れていない事もあり、予想通り辛い1日であった。その後、右手に大西洋を望みながらバスク地方進むが、相変わらず天候不良で泥濘む山道で転倒を繰り返す。どうせ転ぶならと重心をやや後ろに置き、ザックを下敷きに転ぶ。

5月25日にDebaという町の学校を改修した組合運営の宿に到着する。先着の宿泊者がレセプションはエレベーターで降りた下の街の 観光案内所Turismoだと教えてくれた。宿の向かいは崖で海に向かって低地に家並みが続いている。そしてガラスの塔とそこに渡るガラスの橋?が見える。

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教えられたエレベーターのようだ。雛には稀な建造物である。無事ベッドの指定を受け、鍵を受け取り再度エレベーターで上の宿に戻る。一夜の宿りを確保できた。

 

 翌26日の泊まりは修道院。色々な宿に泊まったが修道院は初である。

27日にあのGernikaの町を通るが、徹底的に破壊された後の復興の為か、当時の惨劇に想いを致す事は出来なかった。

 

28日にはBilbaoに入った。嘗ては鉄鋼・造船の街として栄えたが、重工業の衰退をグッゲンハイム美術館の招致を中心に観光都市として甦えった。

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美術館は素晴らしかったが、ここでは幾つかの興味深い橋に出会った。宿からネルビオン川を渡り美術館に向かう。渡る橋は直線でもと思われるが、取り付け道路との関係からか緩やかな弧を描く。歩くにつれ前方に展開する景観の変化を愉しめる。

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さらに進むと今度の橋はギクシャクと折れ曲がっている。

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次の橋は橋脚をキャンバスに見立てて絵が描かれている。

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そして、更に進むと屋外に置かれたアート作品を思わせるスビスリ橋。歩行者専用のタイドアーチ橋で大きく湾曲し、床にはガラス製タイルが使われている。

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橋の袂には磯崎新氏設計の磯崎ゲートが立ち上がり、橋と一体となって ランドマーク的景観となっている。

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しかし、アクロバチックな構造に専門家から「彫刻のおもちゃのようだ」とも言われている。

それにしても、スペイン人は天真爛漫である。

 

ヨーロッパの国境は、膨張主義の戦争の結果引かれた線であり、ナショナリズムを強化し、平和条約を軽蔑したことの帰結である。だから国境線と一致しない国々・言語がこんなにたくさんあるのだ。

                 「旅の効用」 ペール・アンデション/草思社

 

出会った橋ーポルトガルの道-4

水道橋と言えば南仏のポン・デュ・ガールやスペインのセゴビアが思い浮かぶが、ポルトガルにも多くの水道橋が残されており、その幾つかに出会った。全く予定はしておらず文字どうり出会ったのである。ヨーロッパは石の文化という事もあり、歴史を背負った建造物や遺跡に行く先々で出会う。そこで、単なるモノとしてで無くその背後に隠れたコトを知りたくなる。インターネットで検索していて愛知教育大学の柿原昇氏の「ポルトガルの水道橋ーコインブラ・エヴォラ・リスボンを訪ねてー」に出会った。一読後、勝手ながら氏のリポートを参考にコトについてまとめてみた。

 

紀元2世紀頃、イベリア半島はローマの直轄領となり建築物、街道、橋、水道橋等の多くの歴史的遺産を残した。水道橋は地中海気候の夏の乾季に備えた年間を通じての安定した水供給を可能とした。又、古代ローマの権威を示す目的もあったそうだ。その後、5世紀ご頃ゴート人の西ゴート王国建国、そして8世紀の北アフリカからのイスラム教徒が侵入し、11世紀後半までその支配を受けた。引き続き使われていた水道橋も老朽化が進み、放置されたり、破壊されたりした。

11世紀、レコンキスタによりイスラム教徒を一掃し、1143年スペインのカスティリャ王国から独立 。

15世紀頃より大航海時代を迎え、人口増加に伴う都市の水不足が深刻となり、ローマ式水道橋が建設される様になった。現在残されている代表的な水道橋は22箇所あるが、ローマ時代のものはコニンブリガ・ローマ水道橋だけらしい。因みに、コニンブリガも通ったが、早朝の為残念ながら遺跡の中に入ることが出来なかった。古い建造物はついついローマ時代のモノと早合点してしまう。反省!

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9日に紹介した大学都市コインブラサン・セバスティアン水道橋(図中3)はローマ時代の水道橋を利用し1568年に完成し、19世紀後半まで使用されていた。

 

6月3日に出会った城塞都市オビドスに水を送るウセイラ水道橋(8)は1573年完成。平坦な地形部分のためか低くシンプルな構造となっている。

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オビドスは遊歩路となっている城壁に囲まれた人口800人のこじんまりした町で、「谷間の真珠」と呼ばれ、絵の様に可愛らしい街と言われているが、完全に観光地化していた。

 

 翌日、一旦リスボンに戻りバスを乗り換え、スペイン国境の岩と共存する村モンサントに向かう。

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ポルトガルで最もポルトガルらしい村」に選ばれた村であるが、その肩書きを裏切らなかった。後日改めて紹介する。

 

さらに翌5日、リスボンに帰りバスを乗り換え西へと向かう。リスボンではバスターミナルが方向別に分散しており乗り換えも一苦労である。

宿泊地エヴォラも城塞都市で城壁に囲まれた旧市街にはローマ、イスラムキリスト教それぞれの時代の建造物が混然と同居しており、経過した歴史をひしひしと感じさせる。ここのアグアス・デ・プラタ水道橋(20)は町の発展に伴い家並みの中に呑み込まれている。

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近づいてよく見ると何とアーチ部分に民家が張り付いている。注意していないと水道橋には気づかない。

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城壁の外では馬が長閑に草を食んでいる。水道橋は現代の街並みや生活にすっかり馴染んでおり違和感を全く感じさせない。

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6月7日、Elvasを訪れる。スペインとの国境から僅か12kmの城塞都市。イスラム教vsキリスト教ポルトガルvsスペインの攻防戦、更にはナポレオン軍の進攻等の舞台となった。

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城壁の外に伸びるアモレイラ水道橋(17)は地形の関係で4層のアーチで支えられており壮観な眺めである。

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しかし、近くに基地があるのか観光客を乗せた戦車が往来しており、今もって緊張感を覚えさせられる。

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地形の関係で水路が地下にある部分もあるが、これも水道橋の一部である。

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リスボンには大きなテージョ川が流れているが、川の汚染や海に近い為の塩分で18世紀まで夏季の水不足に悩まされてきた。水源のシントラ近郊から58kmのアグアス・リブレス水道橋(12)を1748年に完成させた。

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1755年のリスボン地震にも耐え、1967年にその役を終えた。北西部の渓谷を世界一を誇る高さ65mで横断している。この大工事には植民地ブラジルのゴールドラッシュが大きく寄与したと言われている。因みに、尖塔形 のアーチはイスラムの影響を思わせる。

 

 

そして、9日にリスボンに帰り着いた。リスボンに別れを告げるに当たって再びテージョ川に架かる4月25日橋に会うべくコメルシオ広場に向かった。橋も別れを惜しんでか顔を隠していた。

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 早朝の帰国便の為、宿でタクシーを呼んでもらった。暫く走っていると出発直後と同じ風景が目に入った。やられたなと思った。金額と語学力と相談し黙認した。

チェックインカウンター付近がざわついている。恒例のパリの空港のストライキで機材が届かないそうだ。やばい!  航空会社の職員にへばりついて何とか代替便のシートに収まった。

6月14日,成田に無事帰着。45日の長旅で、巡礼は23日間610kmの歩きであった。

 

ローマ人は支配下のヨーロッパの各地に、こうしたインフララや都市を残しただけではない。それより遥かに重要な彼らの遺産はラテン語であった。といっても一般の人々の間に広がったのは、文語の古典ラテン語でなく、日常に使われる「俗ラテン語」であった。そしてそのラテン語は、土地の言葉を吸収しながら地域ごとの発展をとげ、そこから一連の「ロマンス語」、つまりイタリア語、スペイン語ポルトガル語ルーマニア語が誕生した。フランス語ももちろんそのロマンス語の一つだが・・・・

                 「シャトーヌフ・デュ・パブ」加藤雅彦/「旅の発見」岩波書店

 

イタリア人、フランス人、スペイン人達と共にしている時、彼らはそれぞれ自国語で話している。それでもちゃんと会話が成り立っている。