出会った橋ーポルトガルの道-4

水道橋と言えば南仏のポン・デュ・ガールやスペインのセゴビアが思い浮かぶが、ポルトガルにも多くの水道橋が残されており、その幾つかに出会った。全く予定はしておらず文字どうり出会ったのである。ヨーロッパは石の文化という事もあり、歴史を背負った建造物や遺跡に行く先々で出会う。そこで、単なるモノとしてで無くその背後に隠れたコトを知りたくなる。インターネットで検索していて愛知教育大学の柿原昇氏の「ポルトガルの水道橋ーコインブラ・エヴォラ・リスボンを訪ねてー」に出会った。一読後、勝手ながら氏のリポートを参考にコトについてまとめてみた。

 

紀元2世紀頃、イベリア半島はローマの直轄領となり建築物、街道、橋、水道橋等の多くの歴史的遺産を残した。水道橋は地中海気候の夏の乾季に備えた年間を通じての安定した水供給を可能とした。又、古代ローマの権威を示す目的もあったそうだ。その後、5世紀ご頃ゴート人の西ゴート王国建国、そして8世紀の北アフリカからのイスラム教徒が侵入し、11世紀後半までその支配を受けた。引き続き使われていた水道橋も老朽化が進み、放置されたり、破壊されたりした。

11世紀、レコンキスタによりイスラム教徒を一掃し、1143年スペインのカスティリャ王国から独立 。

15世紀頃より大航海時代を迎え、人口増加に伴う都市の水不足が深刻となり、ローマ式水道橋が建設される様になった。現在残されている代表的な水道橋は22箇所あるが、ローマ時代のものはコニンブリガ・ローマ水道橋だけらしい。因みに、コニンブリガも通ったが、早朝の為残念ながら遺跡の中に入ることが出来なかった。古い建造物はついついローマ時代のモノと早合点してしまう。反省!

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9日に紹介した大学都市コインブラサン・セバスティアン水道橋(図中3)はローマ時代の水道橋を利用し1568年に完成し、19世紀後半まで使用されていた。

 

6月3日に出会った城塞都市オビドスに水を送るウセイラ水道橋(8)は1573年完成。平坦な地形部分のためか低くシンプルな構造となっている。

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オビドスは遊歩路となっている城壁に囲まれた人口800人のこじんまりした町で、「谷間の真珠」と呼ばれ、絵の様に可愛らしい街と言われているが、完全に観光地化していた。

 

 翌日、一旦リスボンに戻りバスを乗り換え、スペイン国境の岩と共存する村モンサントに向かう。

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ポルトガルで最もポルトガルらしい村」に選ばれた村であるが、その肩書きを裏切らなかった。後日改めて紹介する。

 

さらに翌5日、リスボンに帰りバスを乗り換え西へと向かう。リスボンではバスターミナルが方向別に分散しており乗り換えも一苦労である。

宿泊地エヴォラも城塞都市で城壁に囲まれた旧市街にはローマ、イスラムキリスト教それぞれの時代の建造物が混然と同居しており、経過した歴史をひしひしと感じさせる。ここのアグアス・デ・プラタ水道橋(20)は町の発展に伴い家並みの中に呑み込まれている。

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近づいてよく見ると何とアーチ部分に民家が張り付いている。注意していないと水道橋には気づかない。

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城壁の外では馬が長閑に草を食んでいる。水道橋は現代の街並みや生活にすっかり馴染んでおり違和感を全く感じさせない。

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6月7日、Elvasを訪れる。スペインとの国境から僅か12kmの城塞都市。イスラム教vsキリスト教ポルトガルvsスペインの攻防戦、更にはナポレオン軍の進攻等の舞台となった。

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城壁の外に伸びるアモレイラ水道橋(17)は地形の関係で4層のアーチで支えられており壮観な眺めである。

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しかし、近くに基地があるのか観光客を乗せた戦車が往来しており、今もって緊張感を覚えさせられる。

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地形の関係で水路が地下にある部分もあるが、これも水道橋の一部である。

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リスボンには大きなテージョ川が流れているが、川の汚染や海に近い為の塩分で18世紀まで夏季の水不足に悩まされてきた。水源のシントラ近郊から58kmのアグアス・リブレス水道橋(12)を1748年に完成させた。

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1755年のリスボン地震にも耐え、1967年にその役を終えた。北西部の渓谷を世界一を誇る高さ65mで横断している。この大工事には植民地ブラジルのゴールドラッシュが大きく寄与したと言われている。因みに、尖塔形 のアーチはイスラムの影響を思わせる。

 

 

そして、9日にリスボンに帰り着いた。リスボンに別れを告げるに当たって再びテージョ川に架かる4月25日橋に会うべくコメルシオ広場に向かった。橋も別れを惜しんでか顔を隠していた。

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 早朝の帰国便の為、宿でタクシーを呼んでもらった。暫く走っていると出発直後と同じ風景が目に入った。やられたなと思った。金額と語学力と相談し黙認した。

チェックインカウンター付近がざわついている。恒例のパリの空港のストライキで機材が届かないそうだ。やばい!  航空会社の職員にへばりついて何とか代替便のシートに収まった。

6月14日,成田に無事帰着。45日の長旅で、巡礼は23日間610kmの歩きであった。

 

ローマ人は支配下のヨーロッパの各地に、こうしたインフララや都市を残しただけではない。それより遥かに重要な彼らの遺産はラテン語であった。といっても一般の人々の間に広がったのは、文語の古典ラテン語でなく、日常に使われる「俗ラテン語」であった。そしてそのラテン語は、土地の言葉を吸収しながら地域ごとの発展をとげ、そこから一連の「ロマンス語」、つまりイタリア語、スペイン語ポルトガル語ルーマニア語が誕生した。フランス語ももちろんそのロマンス語の一つだが・・・・

                 「シャトーヌフ・デュ・パブ」加藤雅彦/「旅の発見」岩波書店

 

イタリア人、フランス人、スペイン人達と共にしている時、彼らはそれぞれ自国語で話している。それでもちゃんと会話が成り立っている。