出会った橋ー熊野古道/伊勢路・中辺路-2

17日、賀田の船宿を出て甫母峠(305m)を越え二木島へ向かう。石畳と木の根が石畳に絡み合い、樹木の生命力に感じ入りながら歩を進める。

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二木島峠(240m)、逢神坂峠(290m)と峠が続き新鹿(あたしか)に至る。昨日の雨で山道は川となっている。年間降雨量4000mmとあり雨は覚悟の上だが、下りのスリップ転倒も避けられない。

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更に、大吹峠(205m)、松本峠(135m)を越えて熊野市に入る。途中、伊勢路で最も古い鎌倉時代の石畳が残されている。江戸時代のものに比べて石が大きく、荒らしさはあるが重厚感を感じさせる。

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同じ石畳でも築かれた時代や天候によりその表情が異なり、足元の景色を楽しみながら歩く。

松本峠の展望台に立つと眼下に熊野市の街並みと熊野灘にそって延々と続く七里美浜が一望の元に展開する。

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翌日、乗り楽しみにしていた丸山千枚田を訪れる。まさに千枚田である。円山千枚田保存会初代会長の北冨士夫さんに出会い色々とご苦労話を聞くことができた。偶然の出会いであった。

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形状大きさは様々。キラキラ光り静まり返った水面を田植えに勤しむ人影が動く。田毎の月を愛でながら酒を飲めたらと旅への欲望が膨らんでくる。

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5月19日日本最古の神社と言われている花の窟神社に立ち寄る。神殿はなく巨巌を御神体とする太古の遺風を目の当たりにし、霊の世界に脚を踏み入れた事を実感した。

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ここまで書き進めてきて今回は橋が出て来なかったことに気づいた。川が多い日本では日常茶飯事に橋に出会うが、多くは機能第一で後日記憶に浮かんでくるものは少ない。過剰なまでの遊び心を感じさせるスペインで出会ったような橋は稀有である。今回は次回への橋渡しと言うことでお許し願いたい。

つづく

 

民主主義は国が好調である時はきわめて非効率なものに見えますが、国難的危機のときには強い復元力を持ちます。でも、今の若い人たちは、民主主義というものを単なる多数決という手続きのことだと思っている。できるだけ多くの人、多様な立場を合意形成の当事者に組み込むことで集団の復元力を担保する仕組みだということを知らない。

僕はそれを民主主義の危機だと思っているのです。

   「サル化する世界」 内田樹/文藝春秋

 

 

出会った牛

明けましておめでとうございます。

昨年は予期せぬ事態で一挙に閉じこもりの一年となってしまいました。さて、今年は嘗てのような街歩きができるようになるでしょうか。

今朝、恒例の歩き初めで隣の区に跨る公園で初日の出を拝んできました。お裾分け致します。

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後ろを向くと背後のグラウンドには地上の初日の出。

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さらに、横に回り込むと・・・

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今年は丑年という事で歩き旅で出会った牛を記憶の引き出しから引き出しました。

2012年の最初のサンチャゴ巡礼を無事終え、アンダルシアへのバス旅でセビリアへ向かい昼食で立ち寄ったバルで出会いました。闘牛の街だけに本物の闘牛だそうです。壁から飛び出して来そうな迫力でした。

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2013年のポルトガルリスボンで巡礼出発前に出会った牛です。地下鉄の駅のホームの壁面にこうした絵やアズレージョ(絵タイル)の装飾が展開しており、半日間地下鉄に乗り降りしながらのアンダーグラウンドミュージアムを楽しみました。

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2013年、スペイン北部の巡礼路「北の道」の途中で出会った田舎町の牛の市です。買い手はお尻で良し悪しを判断するのでしょうかね。

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2015年、「銀の道」で出会った牛はいいお尻をしていました。じっと見ていると年配の女性に見えてきました。

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 巡礼路を歩いていて出会うのは人間よりも家畜の方が圧倒的に多いですね。日本の中山間地では人も家畜も見かけなくなりました。

この写真を見ていると地元のミュージアムで出会った坂本繁次郎さんの牛が思い浮かびました。

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2018年、フランスの巡礼路を歩き、はるか彼方のピレネー山々を背景にゆったりと歩いている牛を眺めていると、巡礼最終日の疲れも吹っ飛んでしまいました。

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”野面積み”のテーマのもとに、2015年から書き続けてきたブログも7年目を迎え、今回で419便となりました。今後も知力?気力が続く限り描き続けて参ります。

 

出会った橋ー熊野古道/伊勢路・中辺路-1

膝痛で諦めていた四国遍路、更には四度のサンティアゴ巡礼まで成し遂げ、成田空港でロングトレイル一人旅は打ち止めと思った。しかし・・・

年が明け、自らの熊野古道歩きをエッセイに書き起こし、「歩く旅の本 伊勢→熊野」として出版した福元ひろこさんがお話される事を知り、日本橋三重県のアンテナショップの三重テラスに出かけた。熊野古道と言えば海外の旅行者を含め多くの人が歩いている事は知っていた。しかし”群れず、媚びず”のへそ曲がりで我儘な私にとっては、あまり魅力を感じてはいなかった。

彼女が歩いたのは和歌山県側の天皇を始めとした上流階級が往還したメジャー巡礼路ではなく、三重県側のマイナーな巡礼路であった。嘗ては、峠越えをしながら沿道住民が行き来し、伊勢神宮参詣者が熊野まで足を伸ばした道である。雨の中を石畳の道を登り降りするハードな行程と言うこともあり、ここを歩く人は少ない。体験談を聞いているうちに・・・・・

2016年5月9日、一月前に開業したばかりのバスタ新宿で23時55分発三重県の尾鷲行きの高速バスに乗り込んだ。翌朝、9時15分伊勢市駅に到着。ゲストハウス風見荘にチェックイン後伊勢神宮外宮に参り、足慣らしを兼ねて4.5kmを歩いて内宮に向かった。『伊勢へ七度、熊野に三度』といわれているが今回は三度目である。宇治橋を渡り正宮へと進む。撮影禁止とあったが外から撮ったためご覧のようなアングルとなった。

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徒歩で帰る途中で「おかげ参り」の「精進落とし」で栄えた古市の200年の歴史を持つ老舗旅館「麻吉旅館」に立ち寄った。繁栄の中で路地上に橋を架けながら次々に増築を重ねた様が窺われる。

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5月11日、いよいよ古道歩きの始まりである。家々の玄関先に正月飾りが残されている。初めて見る風習であるが無病息災を願って年中飾っているとの事である。

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旅先きに待ち受ける数多くの峠越えは女鬼峠(120m)に始まる。路上の苔むした岩には嘗ての生活の証である荷車の轍跡が残されている。

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宿泊した江戸時代から続く栃原の老舗旅館岡島屋の主人は諦め顔で「息子は後を継ぐ気はない」と言った。

翌朝この先に”馬鹿曲がり”に寄って行ったらとの主人の勧めに、脇道に外れて宮川に向かって降って行った。深い谷筋の道で大曲がりを余儀無くされたことからついた呼び名である。今ではなんて言うことも無い道であるが、その先で出会った馬鹿曲がり橋は幻想的な眺めで寄り道が無駄でなかったと納得した。

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5月12日、三瀬坂峠(256m)を越えて滝原泊。

 

13日、おぐちゃん(俳優の小倉久寛)の実家である宮原の紀勢荘料理旅館泊。主人はそっくりのお兄さん。

 

14日、ツヅラト峠(357m)を越え紀伊長島へ。熊野灘を前にしたリアス式海岸の漁業の町で、宿は築60年の民家を改装したゆうがく邸。

 

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港の船溜まりには今は歩行者専用となっている珍しい昇降式可動橋の江之浦橋が横たわっている。

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15日、一石峠(73m)三浦峠(113m)初神峠(147m)と峠越えの後、上里で出会いがあった。東京の設計事務所をリタイア後地元に帰り、地域おこしに孤軍奮闘?している庄司屋の柴田さんである。1時間ばかり話し込んだ後、再度の出会いを期待しながら先を急いだ。石畳の美しい馬越峠(325m)の下りの途中にあるアルベルゲ山帰来が今日の宿である。

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アルベルゲが表すように二度のサンティアゴ巡礼ですっかり虜になった川端さんご夫婦が始められた1日の予約は一件の宿である。事前にその事を知り真っ先に予約を入れた。

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お互いの経験を交え遅くまで話は尽きなかった。

 

16日、伊勢路で最もハードな八鬼山越である。九木峠(520m)三木峠 さくらの森広場(641m)と続く。再度”鬼”が出てきたが、嘗て地元民にとってはそういった存在であったのであろう。更に、三木峠(120m)羽後峠(140m)と峠は続き、予想外の時間と疲れから宿泊予定の手前の加田の釣り人の宿まさはるでストップ。壁一面の魚拓に囲まれて地場の魚に舌鼓を打つ。 

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伊勢路は海の幸(魚)、川の幸(鮎)、山の幸(樹林)、里の幸(地元民)満載である。

 

つづく

 

中野 民間伝承にこういうのがあるのです。ある旅人が裕福な家に立ち寄って、一晩の宿を乞うた。ところが、その家の家長は裕福であったにもかかわらず、旅人を追い返してしまった。しかし、家長の兄である蘇民将来は貧しいけれど、旅人をこころよく迎え入れたのです。その旅人は実は神で、兄は福をもらったに対し、裕福な弟は災いをこうむった。ここまでだとよくある因果応報なのですが、それから人々の間で「蘇民将来の子孫」と書いた御札を貼っておけば、疫病が寄り付かないと言い伝えられているというのが面白いところです。日本人にとって疫病は「避けるもの」であって「戦うもの」ではないようです。

  「パンデミックの文明論」ヤマザキマリ中野信子/文春新書



 






出会った橋ー銀の道-7

スペインはアンダルシアと言えば白い村を外すことは出来ないと、マラガからAlgecirasに向かう途中の山の中腹に静かに佇むMijasに立ち寄る。写真では見ていたがまさに白い村である。日照日数300日以上の日差しを和らげるために壁面を白一色の漆喰で塗り固めている。白以外は屋根の茶色である。絵具箱をひっくり返したような日本の街並みでは想像できない景観である。

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しかし、村に入り路地を歩いていると、壁面の鉢植えの色とりどりの花そして色タイルの路地や店舗のサインが、単調と思われる家並みに心地よいアクセントとなっている。そして、表面にできた歪みの微かな陰影が日差し日差しへの抵抗感を和らげてくれる。

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白い村を後にして先に進むと、前方に蛇がのたくった様な歩道橋が立ち塞がる。こうしたスペイン流にはもう驚かされない。

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アルヘシラスは左手にイギリス(実はGIbraltar)、向いにアフリカはモロッコを指呼の間に望む港町である。海外旅行もそろそろ年貢の納め時で、アフリカ大陸にも足跡を残したいとアルヘシラスからモロッコへの日帰りツアー参加した。

7月7日、地中海の船旅の証にと無謀にも杉本博司さんの「海景」の向こうを張って空と海を二分する写真を撮る。

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一度は彷徨ってみたいと思っていたスークは期待通りに迷路歩きを満喫できた。路地にひとり座るベルベル人の女性はミステリアスであった。無断撮影、ごめんなさい。

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スペインをバス旅でほぼ一周して7月8日にセビリアに戻る。途中、断崖絶壁の街で知られるRondaで半日を過ごす。小ぶりであるが現存するスペイン最古の闘牛場がある。闘牛そのものには食指は動かないが一度は闘牛場を覗いてみたかった。中に入るとアレーナ上には闘牛士も闘牛もいないが、その舞台装置に両者の戦いを思い浮かべることができる。強烈な日差しが描く影に、日向席の料金が安いことに思わず納得する。

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現在のロンダの基盤はあのローマ帝国スキピオが築いた。厳しい地形を敢えて選んだ時代背景がうかがわれる。街の真ん中に深い渓谷があり新市街と旧市街を分断している。その底部をセルビアを経て地中海に流れ込むグアダルキビル川が流れている。そこにかかる架かるヌエボ橋(新橋)は街のシンボルになっているが、18世紀の建造である。高いところに限らず低いところにも興味を覚え、サンダルばきで崖道を恐る恐る100m下り橋の下に立つ。今までみたことがない壮観な眺めである。

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少し上流にはイスラム時代に造られた古い橋ビエホ橋(旧橋)も残されている。この辺りの地形には厳しさがない為か、先生らしき大人に引率され子供たちが川の中を歩哨している。対照的に穏やかな佇まいである。

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 7月9日、街の周りに広がるひまわり畑と地平線の彼方まで広がる大平原を眺めるべく、セビリアから40km先の白い村Carmonaに向かう。嘗て国王の居城のあった城塞都市で同じ白い村でもミハスとは異にする景観を呈している。

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小高い丘の上に街並みが展開しており、現在国営ホテルParador de Carmonaとなっている断崖上の王城のテラスに立つと、目の前には地平線の彼方まで広がる広大なアンダルシアの平原が展開する。

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翌日、マドリードに戻り「ゲルニカ」に別れを告げるべくソフィア王妃芸術センターを訪れる。展示物は当然ながら、フランス人建築家ジャン・ヌーベル設計の赤い新館と共に、イギリス人建築家イアン・リッチーデザインのガラス張りのリフトが印象に残っている。来館者が天空の架け橋を行き来する様を眺めながら、旅の終わりに思いを致す。

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マドリードのストリートには身をもって表現をするストリートアーティスト?が溢れている。私が選んだベストである。右手一本であの図体を支えている。

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マドリードに別れを告げ54日に渉る長旅を終えた。四本の主要なサンティアゴ巡礼路を歩き終え、成田に到着した時にはこれで終止符が打てたと思った。

 

高橋 「写真作品の評価は、一枚だけでは成立しない。」という話を、どこかで読んだことがあるんです。いくつも見ることではじめて、そのフォトグラファーがどういう視点を持ち、どう切り取るのかが見えてくると言う事。

 「現代アートを楽しむー人生を豊かに変える5つの扉」原田マハ・髙橋瑞木 /祥伝社

 

出会った橋ー銀の道-6

Santiago de Conposteraは四度目であり、その日の夜行バスでMadridに向かう。6月28日早朝、アベニーダ・デ・アメリカBTに到着後、地下鉄で南BTに移動する。スペインやポルトガルでは方面別にBTが異なるので乗り継ぎは大変である。目的地はZaragozaだが大都市のバスターミナルは広大な為、目指す乗り場を見つけるのも一苦労である。手当たり次第周りの人に聞きながらたどり着く。

サラゴサは紀元40年に街中を流れるエブロ川の岸辺に聖母マリアが現れた事から、スペインにおける聖母信仰の中心地となっている。この街もローマ帝国西ゴート族イスラム教徒の支配の痕跡が多く残っている。エブロ川に架かるピエドラ橋はこれまで出会ったローマ橋と一味違い重厚な佇まいである。

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翌日、バスで待望のBarcelonaに向かう。今回は二度目の訪問であるが、4泊5日の自分への大盤振る舞いである。ガウディは当然ながら、ライバルのモンタネール、カダファルクの作品を知る限り訪れるプランをたてた。

前回ピカソとミロの美術館には出かけたが、今回はダリの美術館をとBarselona到着後電車でFigueresに向った。スペインでは巡礼以外でも自転車旅が盛んで、電車への自転車持ち込みにしばしば出会う。

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ダリ劇場美術館の名にある様に巧みな演出の中でダリワールドに酔いしれる。まさしく酔いしれる。しかし、アラビア兵士を描いた小さな絵が何故か印象に残った。

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ガウディがインスピレーションを得たと言うMontserratに出かけた。観光客は黒いマリア像に触れるべく教会堂Basilicaまで出かける。私の目的地はさらにケーブルカー、そして山道をサンダル履きで登った山頂である。私以外には物好きな人は見当たらない。残念ながら私自身にはインスピレーションは訪れなかった。しかし、眼下に広がるカタルーニアは壮大な眺めであった。

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帰路、ガウディが携わったコロニア・グエルに立ち寄った。サグラダ・ファミリアの原型と言われるコロニア・グエル教会は地下礼拝堂の建設に止まっている。本体の教会堂は見当たらなかったが、私にとってのガウディのベストであった。

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 再度のバルセロナは無いものと、思い残しの無いように欲張ったプランを立てたがほぼクリアできた。

 

7月3日、満足感に浸りながらTarragona行きのバスに乗りこんだ。タラゴナは紀元前3世紀にローマ軍によって築かれ100万人を有するイベリア半島最大の都市として栄えた。その証としての数多くの遺構が遺されている。しかし、次々と現れる『ローマ』に感動のボルテージは上がりにくくなっている。一方で、遺跡の片隅の崩れかけた壁面を前にして、モンドリアンの絵画を重ね合わせて暫く佇む。

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街角の建物の外壁には、もしかして遺跡から持ち出したのではと思わせる石材が見られ、色々と想像を巡らす。

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Valenciaと言えばオレンジやパエリアが思い浮かぶが、どんな街かについては具体的なイメージは持っていなかった。ここに立ち寄るのは街外れで開発された文化施設群『芸術・科学都市」である。地元の建築家サンティアゴ・カラトラバがデザインした施設建物はまたもや”これぞスペイン”のオンパレードである。なかでも、広大な敷地を横断する陸橋は町中に音を鳴り響かせる巨大なハープを思わせる斜張橋である。機能としての橋を何かを呼び掛けるパブリックアートが凌駕している。

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Malagaまでは半日に及ぶバス旅となる。夜行のバスを選んだ。マラガはフェニキア人が開き、ローマ、イスラムの支配を経てきた。その歴史の証としての遺跡は各所に見られる。11世紀にモーロ人の築いた要塞アルカサバの城門には馬蹄形のアーチがそれを物語っている。

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マラガと言えばピカソである。生家前の広場のベンチにご本人が座っている。失礼して隣に腰を下ろすと、横目で見ながら”日本人か?よう来たの”と行っているようであった。

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 つづく

 

ヨーロッパでは、都市や建築が積み上げられているように、その文化も積み上げられているようだ。

それに対して日本文化は、その建築が木造の組み立て式であるように、組み立て組み替えを繰り返しているのではないか。

過去には中国から来たものを日本流に組み立て組み替え、近年には欧米から来たものを日本流に組み立て組み替えてきた。西洋の思想が長期的、論理的、構築的であるのに対して、日本の思想は短期的、情緒的、雑居的である。ヨーロッパの文化は「積み上げる文化」であり、日本の文化は「組み立てる文化」である。

   「寡黙なる饒舌」  若山滋/現代書房

 

出会った橋ー銀の道-5

北に向かっていた巡礼路は、6月14日からポルトガとの国境に沿って西行きに変わる。

日本の温泉で働いていたスペイン人が帰国後Ourenseで日本式の温泉を開業している。6月22日、宿に到着後取るものも取り敢えず出向く。同宿の仲間を誘うが全く興味を示さない。町はずれに探し当てる事ができたが、なんと工事中で明日再開とある。せっかく日本から遥々尋ねてきたのだから写真だけはと言ったがけんもほろろ

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止む無く帰りかけると、脇を流れる川の河原に露天風呂があり地元の住民らしき人が入浴中である。早速、許可を得て湯に浸かる。片隅でかがみこんで何かしている人がいる。後ろから覗き込むと温度計で温度を測り湯の温度を調節している。何かにつけアバウトな国にしてはと妙に感心する。湯加減宜しく仲間入りして暫しの時間を過ごす。写真を撮っても良いかと言うと、離れて撮ればOKと言う事でパチリ。

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温泉は期待通りに行かなかったが、友人S氏からこの地に面白い橋があると聞いていたので帰路川端を歩きながら探した。今度は期待通り見つける事ができた。名はPonte do Mirenioである。2000年に架橋されたのだろうか?

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普通の斜張橋にジエットコースター擬きが絡みついている。その部分は歩行路になっているがその役割は果たしていない。展望台ならぬ展望路と思い周回する事とした。

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ここでも”Esto es espana"(これぞスペイン)である。Sevillaで出会った木造の展望台メトロポル・パラソルを思い出す。もしかして同じデザイナーの作品かと思わせる。

更に進むとローマ橋が現れ2000年の時を遡った。この街もローマ軍の築いた街である。しかし、これまでに出合ったローマ橋とは異なり、技術の進歩があったのかアーチは尖塔型で大きく抉れている。

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翌朝、まだ明けやらぬ川面を飛翔するミレニアム橋に見送られながら先へと進んだ。

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巡礼路には小さなローマ橋が点在し、嘗てローマ軍が進んだ事を物語る。

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北に来ると雨が多いのか路傍の石は苔むし日本の山道の趣がある。

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この巡礼路は整備が不十分な事もあり歩く人が少なく、2000年前の世界に浸りながら歩く事ができる。この辺りまで来ると辺境の地と言う事もあり、ローマ橋もシンプルでありその感が強まる。

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どんな地方に行っても自動車専用道が整備されている。いつもの事だが華奢な橋脚には見ているだけでハラハラさせられる。下に川でも流れているのだろうか中央部にはアーチが架かっている。あれこれ考えながら歩き単調な歩きに耐える。

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6月27日、巡礼最終日である。鉄道の跨線橋を渡っていると花を初め色々なものが防護柵に括り付けられている。一緒に歩いていたフランス人に聞くと、2013年にこの先で鉄道事故があり、その時の79人の犠牲者の慰霊だそうだ。そう言えば私は2012年から巡礼の旅を始めており他人事と感じられず、この事故は強く記憶に残っていた。黙祷をささげ聖地Santiago de Composutelaに向った。日本と違い花は造花であった。

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37日間の巡礼行はこの日をもって無事終えることが出来た。後は、ご褒美のバス旅行である。

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つづく

 

旅は日常性の脱却そのものだから、その過程で得られたすべての刺激がノヴェルティの要素を持ち、記憶されると同時に、その人の個性と知情意のシステムにユニークな刻印を刻んでいく。旅で経験するすべてのことがその人を変えていく。その人を作り直していく。旅の前と旅の後では、その人は同じ人ではありえない。

  「思索紀行 ぼくはこんな旅をしてきた」 立花隆/ちくま文庫

 

 

出会った橋ー銀の道-4

6月8日の朝、空は赤く燃えていた。 

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スペイン内陸部は全般的に平坦であるが、今日は標高1,200m弱の山脈越えである。とは言え実質約200mの登り下りである。頂上では風力発電の風車が迎えてくれる。発電量は世界第5位で、各地でこうした風景が見られる。

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6月9日の朝の空は青く静まり返っていた。

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本日の目的地 Salamancaは昨年に続き二度目の訪問であるが、ゆっくりと愉しみたいと5時半出発。24kmの短い歩行の為11時前には今回の巡礼行のキッカケとなったローマ橋のたもとに立っていた。背後にカテドラルを控えモザイク画を思わせるローマ橋は、石垣フェチの私には最高のお出迎えであった。今回の巡礼の中間地点である。

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宿は12時受付16時入室とのことで、近くのバルで昼食の後宿の受付を済ませ、ザックを預けて街に繰り出す。新旧カテドラルに向かい、屋上ツアー"イエロニムス"に参加する。旅先では可能な限り高い所に上がり街並みの俯瞰を愉しむ。旧市街の場合、赤やグレーの屋根の家並みを眺めていると心が休まる。

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サラマンカ大学は世界第三の歴史を持ち、旧市街にすっかり溶け込んでいる。 入場料を払って建物内を回遊できる。図書館は特別な位置づけがあるのか、歴史で積み上げられた"知" の空気が漲っている。

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翌朝、36kmの歩きを考え6時に建物出口に向かった。なんと、ドアは施錠され色々試みるも開く事が出来ない。管理人室を探すがなかなか見つからない。やっと探し当て管理人を叩き起こす。早起きの客の為内部から解錠出来るのが普通で、初めての経験である。

 

6月11日の朝、天候は下り坂で空は白かった。

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西都市Zamoraの入口にもローマ橋が架かっていた。下を流れるドエロ川はポルトガルポルトワインの産地Portoへと流れ下る。銀の道はポルトガルの道と平行して進むので、戦略的な都市が点在している。

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ローマ人、西ゴート、アラブ人そしてキリスト教徒と様々な文化が出入りしたこともあり様々なモノが混在した美しい街である。特に石造の建物は華美ではないが、魅力的である。

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街の一角では出窓が居並んでいる。

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時代の流行であろうか競い合ったのか統一感は感じられないが、返って面白い街並みとなっている。

 つづく

 

街というのは、古い記憶を持つ建物なり、寺社なり、樹木なりがないと安っぽくなりますね。記憶を持たない街は、思い出を持たない人と同じように、付き合いようがないし、一緒にいてもつまらない。

   「すごいトシヨリBook]     池内紀/毎日新聞出版