出会った橋ー熊野古道/伊勢路・中辺路-1

膝痛で諦めていた四国遍路、更には四度のサンティアゴ巡礼まで成し遂げ、成田空港でロングトレイル一人旅は打ち止めと思った。しかし・・・

年が明け、自らの熊野古道歩きをエッセイに書き起こし、「歩く旅の本 伊勢→熊野」として出版した福元ひろこさんがお話される事を知り、日本橋三重県のアンテナショップの三重テラスに出かけた。熊野古道と言えば海外の旅行者を含め多くの人が歩いている事は知っていた。しかし”群れず、媚びず”のへそ曲がりで我儘な私にとっては、あまり魅力を感じてはいなかった。

彼女が歩いたのは和歌山県側の天皇を始めとした上流階級が往還したメジャー巡礼路ではなく、三重県側のマイナーな巡礼路であった。嘗ては、峠越えをしながら沿道住民が行き来し、伊勢神宮参詣者が熊野まで足を伸ばした道である。雨の中を石畳の道を登り降りするハードな行程と言うこともあり、ここを歩く人は少ない。体験談を聞いているうちに・・・・・

2016年5月9日、一月前に開業したばかりのバスタ新宿で23時55分発三重県の尾鷲行きの高速バスに乗り込んだ。翌朝、9時15分伊勢市駅に到着。ゲストハウス風見荘にチェックイン後伊勢神宮外宮に参り、足慣らしを兼ねて4.5kmを歩いて内宮に向かった。『伊勢へ七度、熊野に三度』といわれているが今回は三度目である。宇治橋を渡り正宮へと進む。撮影禁止とあったが外から撮ったためご覧のようなアングルとなった。

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徒歩で帰る途中で「おかげ参り」の「精進落とし」で栄えた古市の200年の歴史を持つ老舗旅館「麻吉旅館」に立ち寄った。繁栄の中で路地上に橋を架けながら次々に増築を重ねた様が窺われる。

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5月11日、いよいよ古道歩きの始まりである。家々の玄関先に正月飾りが残されている。初めて見る風習であるが無病息災を願って年中飾っているとの事である。

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旅先きに待ち受ける数多くの峠越えは女鬼峠(120m)に始まる。路上の苔むした岩には嘗ての生活の証である荷車の轍跡が残されている。

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宿泊した江戸時代から続く栃原の老舗旅館岡島屋の主人は諦め顔で「息子は後を継ぐ気はない」と言った。

翌朝この先に”馬鹿曲がり”に寄って行ったらとの主人の勧めに、脇道に外れて宮川に向かって降って行った。深い谷筋の道で大曲がりを余儀無くされたことからついた呼び名である。今ではなんて言うことも無い道であるが、その先で出会った馬鹿曲がり橋は幻想的な眺めで寄り道が無駄でなかったと納得した。

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5月12日、三瀬坂峠(256m)を越えて滝原泊。

 

13日、おぐちゃん(俳優の小倉久寛)の実家である宮原の紀勢荘料理旅館泊。主人はそっくりのお兄さん。

 

14日、ツヅラト峠(357m)を越え紀伊長島へ。熊野灘を前にしたリアス式海岸の漁業の町で、宿は築60年の民家を改装したゆうがく邸。

 

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港の船溜まりには今は歩行者専用となっている珍しい昇降式可動橋の江之浦橋が横たわっている。

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15日、一石峠(73m)三浦峠(113m)初神峠(147m)と峠越えの後、上里で出会いがあった。東京の設計事務所をリタイア後地元に帰り、地域おこしに孤軍奮闘?している庄司屋の柴田さんである。1時間ばかり話し込んだ後、再度の出会いを期待しながら先を急いだ。石畳の美しい馬越峠(325m)の下りの途中にあるアルベルゲ山帰来が今日の宿である。

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アルベルゲが表すように二度のサンティアゴ巡礼ですっかり虜になった川端さんご夫婦が始められた1日の予約は一件の宿である。事前にその事を知り真っ先に予約を入れた。

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お互いの経験を交え遅くまで話は尽きなかった。

 

16日、伊勢路で最もハードな八鬼山越である。九木峠(520m)三木峠 さくらの森広場(641m)と続く。再度”鬼”が出てきたが、嘗て地元民にとってはそういった存在であったのであろう。更に、三木峠(120m)羽後峠(140m)と峠は続き、予想外の時間と疲れから宿泊予定の手前の加田の釣り人の宿まさはるでストップ。壁一面の魚拓に囲まれて地場の魚に舌鼓を打つ。 

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伊勢路は海の幸(魚)、川の幸(鮎)、山の幸(樹林)、里の幸(地元民)満載である。

 

つづく

 

中野 民間伝承にこういうのがあるのです。ある旅人が裕福な家に立ち寄って、一晩の宿を乞うた。ところが、その家の家長は裕福であったにもかかわらず、旅人を追い返してしまった。しかし、家長の兄である蘇民将来は貧しいけれど、旅人をこころよく迎え入れたのです。その旅人は実は神で、兄は福をもらったに対し、裕福な弟は災いをこうむった。ここまでだとよくある因果応報なのですが、それから人々の間で「蘇民将来の子孫」と書いた御札を貼っておけば、疫病が寄り付かないと言い伝えられているというのが面白いところです。日本人にとって疫病は「避けるもの」であって「戦うもの」ではないようです。

  「パンデミックの文明論」ヤマザキマリ中野信子/文春新書