フランスで最も美しい村ーSaint-Come-d'Olt

ル・ピュイの道を歩き始めて7日目の5月15日。前日は世界遺産に指定され花の咲き乱れた"Aubracの荒野越え"が季節外れの雪で辛い雪中行軍となってしまったが、高度が1,300mから一気に300m台に降ったせいもあり小雨の中の歩行となった。昼前、頂部が捻れた教会の鐘楼が目に入った。最初の"美しい村"サン・コーム・ドルトである。吉村氏によると「らせん形の鐘楼が村を見下ろす中世の面影を宿す谷間の宿」とあり、15〜16Cの中世の要塞都市である。

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さらに進むと道の両側には当時の家並みがそのまま残されている。人影はなく静まり返ってその時代に足を踏み込んだ錯覚を起こす。

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足元に点々と続く巡礼路を示す標識を辿って行くと、あの鐘塔の教会にたどり着く。

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ゴシック様式のシャペル・デ・ペニタン教会である。

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小さな村の教会らしく入口の装飾はシンプルだが、扉の彫刻に目を惹かれる。

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中に入るとこれもシンプルであるが、ステンドグラスはいつの時代のものかモダンを感じさせる。

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当時の要塞は住宅が防御壁を兼ねていることがある。住宅はこの地方の石造が主体であるが,柱・梁の間にレンガを充填したハーフティンバーも見受けられる。どこを見ても絵になる。

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煙突の並ぶ反りを持った屋根も見飽きがしない。

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宿泊は先の村なので名残惜しいがロット川を渡り先に進む。

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石の文化のお蔭か歴史と現実の生活が渾然一体となっており、最も美しい村かどうかは別として記憶に残る村である。

ところで、鐘塔の捻りは疑問のまま残っている。

フランスの最も美しい村- 1

世の中に氾濫している可愛いとか美しい、更には最〇、最〇級といった修飾語に素直になれない 。とは言いながら先週はうっかり最〇〇について語ってしまった。

 

ところで、巡礼にあたっての事前の調べでフランスには「フランスの最も美しい村」なるものがある事を知った。質の良い遺産を多く持つ田舎の小さな村の観光を促進する事を目的として1982年に定められた。選定基準は「人口2,000人未満」「質の高い保護財産」「村らしい居住空間」「建物の外観の調和」「自治体議会の調和」とある。「美術館の村でなく、広場に人々が集まる活気に満ちた村」とも言っている。2017年5月現在で156村が指定されている。

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 今回歩いた「ル・ピュイの道」は地図中の赤い点が集中しているフランス南部を東から西に向う巡礼路である。従って「フランスの最も美しい村」を9ヶ村訪れることが出来た。素直になれない私が今回これらの村をどのように感じたかを改めて振り返ってみた。美しいものは美しい、最も〇〇なものは最も〇〇であると、素直に感じられる方は改めて口直しに吉村和敏さんの著書「フランスの最も美しい村」全踏破の旅(講談社)やインターネットを覗いてみてください。

村の入り口には下図のサインがあった筈であるが、私は全く気がついていなかった。デザインと言い色使いと言い村をイメージさせながらも洒落ており流石と思わせられる。実物を目の当たりに出来なかったのは心残りである。

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フランスやスペインでは日本の様に「ここが世界遺産です」とか「ここは美しい村です」とか声高に歌い上げて宣伝しないので、こちらが何かを感じ取らなければそのままスルーしてしまうことがある。

 

因みにベルギー、カナダ、イタリア、スペインそしてお墨付き大好きの日本にも同様の指定「日本で最も美しい村」が有るらしい。日本では平成の大合併とやらで多くの村が消滅しているせいか指定条件は人口1万人以下の町村としており63箇所あるそうだ。どこが指定されているかは知らない。所謂普通の観光地とどう違うのか、フランスでのあり方とはチョット違うような気がする。

続く

 

 

 

姑のクッション

 TVでフランスの旅番組をチラ見していた時道端の黄色い花が映し出された。俗称「姑のクッション」との事。名前が気になったのでインターネットで調べたが見つからない。"ル・ピュイの道"でも色々な黄色い花に出会っていたので撮影した写真を探したが見当たらない。巡礼中、単調な景色に飽きた時道端の花を撮っていたので、スペインとポルトガルの写真を調べたところありました。

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Fisterraにて  2012/9/30

何故これ程執着したか。写真を見てお気づきと思うが、小ぶりの花は可愛らしいが葉っぱは細く尖っている。雨が少ないためらしい。でもうっかりすると痛い目に遭いそう。誰が名付けたのか如何にもフランス人のエスプリを感じさせる命名である。

 

ところで、人間最〇〇と言われるとついつい行ってみたくなる。Fisterraは地の果て(fin de la tierra)を意味するスペイン最西端の岬で、この地は中世に生と死の境目と考えられ、巡礼の締めくくりに海で身を清め、身につけていた衣服を燃やし、西の果てに沈む太陽を眺めて、古い自分に別れを告げたと言う。私も訪れたが未だに古い自分を引きづっている。

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 更に、ポルトガルの詩人カモンイスが「ここに地果て、海始まる」と読んだユーラシア大陸の最西端ロカ岬。はるばる東の端から来た我が日本人にとっては特段感慨深いものがあった。

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カモンイスの石碑  2013/6/10

 

 更に更に、ヨーロッパ大陸の最西南端はポルトガルのサン・ヴィセンテ岬。かつて、世界史で出会ったエンリケ航海王子ゆかりの地Sagresから約6kmをレンタサイクルで出かけた。未知の地を夢見ながら世界に船出して行った古人に想いを馳せながらペダルをこいだ。

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はるか彼方を望むエンリケ航海王子   2013/6/8

 

 

 

少年は走る

坂の上から少年が駆け下りて来る。

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6月7日,巡礼のスタート地Le Puy en-Velayを後にして31日目、残り2日でゴールのSaint-Jean-Pied-de-Portに到着する。Aroue/Arueの宿に滞在している。バスク地方に入ったのだろう地名はフランス語とバスク後の併記である。前後の宿との位置関係で歩行距離は18kmで早くも1時前に到着した。小高い丘の上にポツンと建つ宿でさらに上のオーナーの住居以外何も見当たらない。

チェックインまでの約1時間を建物の前で 無為に過ごす。受付の後にシャワーと洗濯を済ませたが7時の夕食までタップリ時間がある。周りには何もないため宿泊者はロビーのテーブル上に置かれた食べ物や飲み物を勝手に手にし、側に置かれた箱にお金を入れて戸外に出る。テラス状の建物の前にはテーブルとイスが並んでおり、購入した飲み物などを口にしながら時を過ごす。途中で出会った人と話し込む人、漫然と風景を眺める人、シエスタを満喫するもの等々。目の前の大きな空に展開する雲は見ていても飽きることはない。

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気分転換にと上に見える住宅に向かって坂を登り始める。前方から胸にrakutenのTシャツを着た少年が駆け下りてくる。しばらく見ていると妹と思われる少女と住宅と宿の間を何度も駆け足で往復している。日常での遊びのようである。

夕食の準備ができ宿泊者全員が屋外のテーブルを囲み待ちかねた食事に取り掛かる。

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食後には色とりどりのチーズが 出され、ワインを飲みながら絶え間のない会話がいつまでも続く。こうした時間の過ごし方は我が日本人には苦手であるが、慣れてくると楽しい時間の過ごし方になる。

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9時を過ぎても未だ明るい。明日を考え三三五五ベッドに向う。単調ではあるが心和む半日を過ごすことができた。

 

FOUJITA

東京都美術館に出かけた。没後50年藤田嗣治展と銘打っての彼の画業の全貌を展覧する大回顧展である。流石に見応えのあるものであった。

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6月10日,サンティアゴ巡礼を終えた翌日ParisからReimsに足を伸ばした。お目当は三大聖堂の一つのランス大聖堂である。因みにReimsをランスと読むとのこと。そしてもう一つのお目当は藤田が建造し、自ら最後の夫人と共に眠っている"フジタ礼拝堂"である。駅から町並みを眺めながら歩く。静かな佇まいの礼拝堂に到着したが、開館まで未だ時間があり周りに人影も見当たらない。

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向かいのシャンパ醸造所のロビーで時間を過ごした後再度出向くと、何と数十人の人が並んでいる。日本人は私だけ。小さな礼拝堂に入ると四面の壁にフレスコ画が展開。今まで見てきたフレスコ画と違った空気感を感じさせる。フジタワールドである。

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幾つかのステンドグラスも目に入る。

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そして、扉に描かれた小さな絵。

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外に出ると入口の両脇の壁面には彫刻。

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様々な作品を楽しんでいる内に周りの人影が消え、私一人が小さなフジタ美術館を占有していた。暫く穏やかな時間を過ごした後に礼拝堂に別れを告げランス・サン・レミに向かって歩き始めた。

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最近は日本にいても多くの名品を居ながらにして鑑賞することができるが、その場に行かなければ出会うことができない作品もある。そうした出会いを味わえる旅は、私に旅の醍醐味で味あわせてくれる。

 

Le Puy-en-Velay

2012年初春、私は四国八十八ケ所の巡礼路を歩いていた。それまでの三年間左膝の故障でリハビリの日々を過ごしていた。7割方の回復を果たしその実感を得る為、兼ねてから我がウオーキングの最終目標としていた八十八ケ所に挑戦した。行けるところまで行ければいいやと覚悟しての出立であったが、幸いにも完歩することができた。その後、本屋で「聖地サンティアゴ巡礼」(ダイヤモンド社)を目にし、無謀?にもその秋には"フランス人の道"のスタート地フランスのサンジャンに立っていた。いろいろな面でハードな旅であったが、無事聖地サンティアゴ・デ・コンポステラの大聖堂を目の前にすることが出来た。しかし、その時正直なところ何かを成し遂げたとか何かが得られたとかの実感がわかなかった。そして、年が変わると"ポルトガルの道"を歩き、更に年が変わるごとに"北の道","銀の道"と歩いた。結果は同じで、その後体力、気力を考え、国内にシフトし"熊野古道",塩の道"を歩いた。

ある時、サンティアゴ巡礼のルート図を見ていて、巡礼路はスペインに入るまでにヨーロッパ各国に網羅されている事に改めて気付き、隣のフランスを歩けば何か変化を感じられるかとの思いに至り、多少の不安を感じながらも"ル・ピュイの道"へと出かけた。

スタートはLe Puy-en-Velayで、オーヴェルニュ=ローヌ=アルプ地域圏 オート=ロワール県の人口2万人弱の県庁所在地。

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 5月9日早朝、ノートルダム大聖堂(写真右端)でのミサに30名弱の巡礼者が参列。後で分かったが殆どがフランス人で国際色豊かであったフランス人の道と雰囲気が違う。終了後司祭から出発に当たってのお話があったがフランス語のためほぼ理解不能。途中で"ジャポネ"が耳に入った。近くの人に何を言っているかを英語で尋ねると「日本人が参加しており、彼はオンリーワンである。」との事。そしてその場の人達に紹介された。お陰げで途中で出会う巡礼者から屢々声をかけられた。へそ曲がりである私の座右の銘は恥ずかしながら"群れず媚ず"であり、司祭の言葉は私にとって大きな喜びであった。

その後、参列者は次々と巡礼のスタートを切っていった。

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私は昨日国鉄のストの影響で到着が遅れ、訪問できなかった岩上のサン・ミシェル・デギレ礼拝堂(写真左端)へと向かった。なんとこの岩の塊は嘗てマグマが噴き出した火山。この辺りにはこのような岩山が散在しているが、単成火山群と言われ一度だけの噴火が連続しこのような地形を造ったのだそうだ。Le Puyは噴火が収まった後に人が住み着いてできた街で、辞書を引くとpuyは山丘とあった。因みに、日本の火山は同じ所で何度も噴火した複成火山とのこと。

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 268段の階段を登ると頂上に12Cに建てられた礼拝堂。中に入ると壁面いっぱいにフレスコ画が残されている。柱は溶岩の玄武岩を削り出したもの。出発の時間を忘れ暫くの間時を過ごし、その後フランスで初めての永い巡礼の旅へとたびだった。

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歩くことは捨てること

サンチャゴ巡礼の話をすると「(辛い目をして)何故歩くの」と動機を聞かれる。私は一瞬戸惑いながら「歩くことが好きだから」と答える。

 

巡礼とは神の恵みを得る為に聖地へ旅することであり、キリスト教徒にとっては義務ではなく、熟慮に基づく自発的行為である。因みに、イスラム教徒にとってメッカ巡礼は信者として義務であり、巡礼を行わない教徒はアッラーの天国に入ることはできない。

そもそもの巡礼の動機は「自分を助けてくれるよう、病気を治してくれるよう等奇跡が起きる事を願う」「支配者が自分たちの目的を遂げるために、聖人の保護を求める」「宗教裁判所や教会から課せられた刑罰を償う為」「亡くなった人の代わり」「巡礼を口実に各地を放浪し生活する」等。(「サンティアゴ・デ・コンポステーラと巡礼の道」創元社  参照)

 

小野美由紀さんが著書(「人生に疲れたらスペイン巡礼」光文社新書)で巡礼途上で出会った人の言葉を紹介している。

「人生と旅の荷造りは同じ。いらない荷物をどんどん捨てて最後に残ったものだけがその人自身です。歩くこと、この道を歩くことは"どうしても捨てられないもの"を知るための作業なんですよ」

個人主義のヨーロッパらしく、人間関係はドライでフラット。基本単位は"一人"。なんと肌心地の良い距離感の間に漂っている。「ここは人間がちゃんといる。だから安心して一人になれる。」 

参考までに、西洋では神と個人の契約で成り立っている。だからファーストネームで呼ぶ。日本は世代間連携である。納得。(テレビで聞いた話)

 

私には確たる自覚は無いが自分自身を知りたくて歩いてきたのだ。永年にわたって溜まりに溜まったものを抱えて。安心して一人になる為に遥々ヨーロッパまで出かけてきた。聖地に到着した時の達成感の不在は未だ捨てるべきものを捨て切れていなかった為か。そして、年が変わるとまた出かけていた。

 

今回の巡礼途上でスイスのジュネーヴから来た若い男に出会った。システムエンジニアの仕事を辞め、荷車を引きテント生活をしながら約三ヶ月かけてサンティアゴ・デ・コンポステラを目指して一人で歩いている。住居は中心市街地の50m×50mの敷地に建つ二階建てだそうだ。私は巡礼の動機については個人それぞれの問題と捉え聞かないことにしている。しかし、興味はあるので勝手な空想は働かせている。そして、今どこで何をしているのだろうか。

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髭は聖地到着まで剃らないそうだ