果無集落を通って本宮大社へ
熊野古道「小辺路」は麓集落から1,000m強の峠を越えると言うパターンを繰り返して進む。
おまけに谷筋が急峻で、尾根筋に取り付くまでと尾根筋からの下りは足元の悪さも加わって難儀をする。
今日は観光客に人気の果無集落まで急な登りが続く。ところが着いてみるとバス停がある。納得…
集落の入口には獣避けの扉。そう言えば今回はあちこちで熊出没注意の貼り紙を見た。伯母子峠では小屋にいた人が外に現れた熊の恐怖を語ったと言う話を聞いた。
集落内点描
軒先が参詣道
田圃の脇に運動不足?の鯉
早朝から道の補修
厳しい労働の後には
宣伝されているほどのものではないが、無断で縁先を借りて宿の弁当を只一人で食しているこの時間に至福を感じた。
更に登ると足元に集落が目にはいる。ここまで来ると謳い文句の"天空の郷"が実感できる。雲海が加われば言うこと無し。
道の脇には一定の距離を置いて三十三体の石像の観音さん。信仰の対象ではないが、立ち止まって眺めていると、それぞれ異なった表情が心を和ませてくれる。
遠方に連なる山々の名は知らないが、まるで日本画。
といっている間に、本宮大社に到着し、今回のロングトレイルの前半は無事終了した。
マンホールではなくハンドホール
三浦峠を越えて十津川温泉
朝食にはお母さんが実家から調達した新鮮で大きな卵。何よりの御馳走であった。お弁当はでっかいめはりずしに手書きの手紙。素朴であるが行き届いたおもてなし。その気になったら是非訪れてほしい。「農家民宿政所」
今日は標高400mから1,080mの三浦峠を越え200mの十津川温泉までのお決まりの歩き。
登りはじめて間もなく出会ったのは、永年にわたり何があったのか、奇妙と言うか摩訶不思議と言うか杉の巨木。普通だと゛なんとか杉゛と名前がついていそうなものだが゛無名゛である。
尾根筋では斑模様の紅葉が目を楽しませる。
後半は単調な車道歩き。気分転換を図りながら歩ききった。
老後の人生を楽しんでいると言うおっちゃん
紅葉真っ盛りのけやき
名前は知らないが色違いの紅葉
柿以外の秋の果実も
楽しみにしていたつり橋は疲れで腰に力が入らず、上限左右の揺れに耐えきれるかと不安を抱えながら渡りきった。
宿の屋上の露天風呂から小辺路最後のお楽しみの果無集落あたりに目をやりながら、一時を過ごした。
三浦口~十津川温泉 薄曇り 19.2km
日本二百名山伯母子岳
8日の記事です。
今日の宿は築300年の農家民宿。立派な薬医門を抜けると質素な外観の民家。屋内も特別な装飾はないがガッチリした柱梁が歴史を感じさせる。ここで77才の母とその息子夫婦が二間に客を泊めている。二組六人までであり、テレビで紹介されたこともありなかなか予約が取れない。WIFIは近所の廃校となった小学校まで行かなければならないので、一日遅れの発信となった。
今日の行程はタイトル通りの山越え。かの田中陽気も通過した標高1344mの山である。宿(700m)からつづら折りの急勾配を一気に登りきる。昨日同宿であった岡崎から二人連れの山ガール?には瞬く間に置いてきぼりにされる。
登るにつれ気温がぐんぐん下がり強風と寒さでファスナーの上げ下げやカメラのシャッターもままならない。夕方のテレビでトランプの当選と共に春一番が報じられていた。頂上ではあちこちに白い花をつけた木々。近づいてみるとなんと樹氷?。
強風に煽られ
下りは急斜面につけられた細い山道で、片方は深い谷に一直線。運が良ければ大怪我で済むと変な想像をしながら歩を進める。
樹木は杉の植林が大半であるが、間引きされた樹木がそのまま放置され、林業の現状を垣間見た気がした。
集落を外れた山あいに旅籠跡や茶屋跡ががあちこちに残されており、嘗ての巡礼者の賑わいに思いを致す。
伊勢路で見られたが石畳にもであったが、下りの石畳は最悪で、下りきったときには腰抜け状態であった。
大股~三浦口 薄曇り 15.9km
女人道から小辺路へ
天気予報通り昼前から雨。今夜の宿は参詣道を外れている上、ドコモ以外は通話不可の為、バス停脇の公衆電話で迎えを依頼する。この電話、観音開きの箱に入っておりダイアルはジーコジーコ。宿について濡れた衣服を着替え洗濯を済ませ、近くの温泉に出かける。大きな窓の外は紅葉。ぬるまめの湯加減でついつい長湯をしたが、いつもの初動期の筋肉痛が若干緩和された。
今日は奥の院での生身供に立ち会うべく5時半起き。日の出が6時半なので外は真っ暗。燈籠の薄灯りを頼りに参道を進む。6時に空海さんの朝食が出発した。私も奥の院に入り一時間あまりのセレモニイーを間近に見聞きした。数えきれないほどの天井の灯籠のもと堂内に響き渡る般若心経。
奥の院に向かう
奥の院からの帰途
ここでも紅葉が見られたが、こんな紅葉も良いものだ。
女人禁制の為、嘗て女性が往来した女人道の一部を歩いた。結構険しい道である。
尾根道なのは木立の間からその佇まいを少しでも窺いたいとの願いの表れか。
途中から小辺路に入り大股へと向かう。自動車道や林道の部分が多い上、途中から降りだした雨で景色を楽しむ余裕がない。
紅葉も部分的だったが、秋らしい眺めに出会った。
雨の眺めも見ようによっては捨てたものではない。かってな思い込みだが、雨に霞んだ杉の木立に長谷川等伯の「松林図」を思い浮かぶ。
ところで夕べの宿はゲストハウス。欧米でバックパッカーがよく利用する宿であり、日本でも徐々に増えている。バックパックの旅行経験者が始めている場合が多く、利用者のニーズに上手く対応している。即ち清潔でリーズナブルな低価格そしてコミュニケーション。かく言う私も愛用しているが、日本人の利用はもうひとつ。夕べも十数人の宿泊者がいたが、日本人は私一人。
ゲストハウス高野山Kokuu
入口上部の硝子窓の向こうに
奥の両側に二段の木製カプセル
奥の院~大股 19.1km 曇後雨
真田丸から空海へ
夜行バスで大阪難波到着。三列座席のフルリクライニングで熟睡できた。スペインでは巡礼の後はもっぱら長距離バスを利用してあちこち移動していたので苦にならない。あちらでは夜行バスでも普通の観光バス仕様で、おまけにランドアバウトでしばしばツイスト状態になる。御の字である。
南海電車で九度山下車。歴史は好きだが大河ドラマは興味を覚えない。でも真田庵を素通りするわけには行くまい。
富有柿の産地だけにこんな風景も見られる。
町の木は柿であり足元のマンホールも柿である。道端の無人店舗で六個くらいを100円。
高野山の壇上伽藍から慈尊院まで一町(約109m)毎に石柱が180本。町石道として今では格好のトレッキングコース。
針葉樹主体の為コース上では紅葉は楽しめなかったが、ゴールの高野山では平地では見られない濃厚な紅葉が待っていた。
Legacy/Heritage/遺産
最近のオリンピックレガシー論議にはうんざりである。まるでレガシーと言う遺産を後世に残すことがオリンピックの目的でもあるかとの錯覚を起こす。オリンピック憲章に
"To promote a positive legacy from the Olimpic Games to the host cities and countries"
とあるから満更間違いではなさそうである。皮肉の見方をすれば後世の人たちにとっては、負のレガシーこそ貴重な遺産と言える。
一方、ワールドヘリテイジも人気観光地として賑わっている。ユネスコのHPには
「世界遺産とは、地球の生成と人類の歴史によって生み出され、過去から現在へと引き継がれてきたかけがいのない宝物です。現在を生きる世界の人びとが過去から引継ぎ、未来へと伝えていかなければならない人類共通の遺産です。」
とある。しかし、日本では観光による地域振興を目的に世界遺産登録が論議され、本来の保全という目的が見えにくい。
先日和歌山県主催の「世界遺産シンポジューム」に出かけた。10年前に登録された「紀伊山地の霊場と参詣道」のその後の保全活動の成果としてあらたに掘り起こされた資産の追加登録が承認された事を機に開催された。お祝いと観光客誘致の色合いが感じられたのは止むをえないが、パネリストの一人デービッド・アトキンソンさんのコメントが印象に残った。彼はイギリス人でありながら江戸時代から続く国宝・重要文化財等の修理を手がける企業の代表取締役社長を務めている。
ヨーロッパでは世界遺産を謳って地域振興や観光客誘致を図っていない。特別なイベントで誘客を図ることなく本来の有り様を見せる。
そう言えばスペインやポルトガルで多くの世界遺産を訪れたが、これは世界遺産だと言う意識はほぼなかった。また昨今の海外からの、特に欧米からの観光客の行動を見ていると納得がゆく。
五月に熊野古道の伊勢路・中辺路を歩いたが、その後関連の本を読み、映像を見て紀伊山地の歴史的背景や地域特性を深く知るにつけ、再度熊野古道を歩きたいと思う気持ちが強くなった。そこで紅葉の季節にゆっくりと歩くことにした。今回は、嘗てから訪れてみたいと思っていた十津川村を通る小辺路(高野山〜熊野本宮大社)を歩き、その後一晩語り明かそうと約束した庄次屋の主人を訪ねて熊野市から伊勢に向って伊勢路を逆に歩く予定。スタート は11月7日「真田丸」でお馴染みの九度山駅です。
高野山の表参道「町石道」
天空の郷 「果無集落」
可能な限り毎日ブログ発信しますので、宜しければ"Virtual Pirigrimage" よろしく熊野古道を一緒に歩いてください。
ガウディを訪ねてを終えて
念願のガウディ作品の訪問を終え、感じたことを写真の助けを借りながら文章にしてみた。多くの出版物や映像で紹介されているので、出来るだけ自分が見たものを写真で、感 じたことを文章で表現してきたが、生半可な知識、平凡な感性、そして貧弱な文章力で、結果はありきたりのものになってしまった。私個人の記録はここまでと諦めた。
最近、下村純一さんの「不思議な建築ー蘇ったガウディ」( 講談社現代新書) を読んでいて、私が感じ文章化したかったことを適確に記述されている文章に出会った。下村さんには申し訳ないが、その文章をもって私の総括とさせていただきたい。
不思議さの元は、彼の建築に備わった、動きにあるのではないだろうか。それは、リズミカルでスピード感や警戒感を呼ぶ機械的な動きではなく、うごめく、脹らむ、皺が寄る、波打つ、畝るといった、生物や大自然の営みに立ち現れる動きである。建築表現に動きが与えられることだけでも、ふつうでは考え難いのに、ガウディは、むしろグロデスクな印象を与えかねない不規則な動きを、積極的に表現の中に織り込んだ。建築は、昔から揺ぎない姿で立つものと決まっているのに、である。
包まれるという印象も、またもう一つのガウディの不思議さといえる。ふつう、建築空間は壁によって囲まれるものである。それがガウディの建築では、カサ・ミラの玄関ホールやカサ・バトリョの階段室で見られるように、中に吸い込まれてゆく、あるいは袋ですっぽりとくるまれてしまう、そういった印象を強く人に与える空間に仕立てられている。壁に囲まれた四角い空間ではないのである。
カサ・バトリョの階段室
おっと、忘れていた。もう一つの"ガウディを訪ねて"があった。市街地内にありながらちょっとばかり外れている上、最も大人しい作品の為か殆ど注目を浴びていない「カサ・カルベ」(1898~1900)。地図を頼りに探し出会った人に所在を聞くがわからないと言う。やっとの事でたどり着いた。砂岩切り石積みの事務所兼住宅である。6年後に手がけるカサ・バトリョの原型を見る感じである。
しかし、第 1回のバルセロナ建築年間賞に輝 いた完成度の高い作品である。
内部はバロック的な様式の装飾に溢れているとのことであるが、残念ながら非公開のため目にすることはできなかった。一階にはレストランが入っているが、営業時間外のためエントランスを外から眺めるだけ。
住宅エントランスの巨大なドアノッカー?が印象的であった。
建築学校卒業後最初に手掛けた街灯が立っているレイアル広場にも立ち寄る。学校を出たばかりでこれだけのものを仕上げるとは凄い。周りの建物にも負けていない。
そしてメインストリートの歩道に敷かれたタイルも忘れずチェック。特殊な工法で作られ摩擦に非常に強く、今でもしっかりと収まっている。。3枚並べると巻貝や人手そして植物らしきものが現れる。実際はもう少し青っぽかったと思う。カサ・ミラの内部の床にも使われていた。
これでもう思い残すことはない。