出会った橋ール・ピュイの道-21

6月11日、聖女マグダラのマリアに捧げる教会サント・マリー・マドレーヌ教会のヴェズレーに向かう。1000年の記憶を秘める聖堂内の彫刻はロマネスク美術の白眉と言われている。当初、巡礼出発地に向かう途中に立ち寄る予定であったが、ストにより日本発が1日遅れた為巡礼後に再調整中であった。モネが描いた連作ルーアン大聖堂の時間の流れを実感したくて予定していたルーアン訪問を諦めヴェズレー訪問を実現した。

パリで鉄道を利用する場合、訪問地の方向によってターミナルが異なる。今回は南方向のベルシー駅スタートである。小雨の中をセーヌ川右岸を上流に向かって歩く。観光的にはなんでもない景観であるが、私にとってはアラブ世界研究所、レ・ドック、財務省、新国立図書館、ベルシー公園と愉しみが続く。

そして、出会いを楽しんできた”橋”にも出会った。シモーヌ・ド・ボーヴォワール橋とある。彼女の名にちなんで命名したそうだが・・・・

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歩行者・自転車専用橋であるが橋脚は無く、二重の波打つ橋桁で全長304mを支えている。デザイン的に素晴らしい橋であるが、構造的にもすごい橋である。アルザスのエッフェル社で製造され、北海、英仏海峡、運河、セーヌ川を航送されてきた。スペインのビルバオポルトガルポルトでもこのような奇抜な構造物にはエッフェルの名に出会った。橋は川や道路を横断する為にだけ有るのではないのだ。

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最寄り駅でCARTERと言う接続バスに乗り換え、ヴェズレーに到着する。丘の上の教会に向かう古い屋並みの参道を登ってゆく。

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教会は12Cに建てられたロマネスク様式であるが、ファサードは13Cのゴシックの仮面と19Cの修復の痕跡に覆われている。西正面扉口にはお約束のタンパンが見られる。

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しかし、これは後代の粗悪品と言われ、本物のロマネスクのタンパンは堂内の「精霊降臨」である。イエスの教えを伝導するキリスト教会が誕生した、まさにその瞬間を表している。

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見所はキリストの全身を覆っている衣文である。「その衣は優美に波打ち、渦巻く風に揺れ動いている」「たばしる本流のごときその衣文をみているとめまいがしそうだけれど」等の表現で紹介されている。

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堂内をかざる100点にも及ぶ柱頭彫刻は「旧約聖書」に由来するものが多い。

「粉を挽く男たち」左がモーゼ、右がパウロで挽き臼はイエスその人。旧約の教えを新訳に変えているところ。

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残酷な場面も多い。

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美術史家によれば、「悪道図」の多くは修道士の悪夢から生まれたのだそうだ。美術史家のマールはゴシック以降の怪物彫刻がロマネスクに比して精彩を欠くのは、悪魔の幻影よりも死の現実を恐れるようになったからと言う。

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聖堂の裏の見晴らしの良い広場からはブルゴーニュの佇まいが一望できる。

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脇道に逸れると見慣れた標識に出会う。そうです、ここヴェズレーも巡礼路のスタート地点なのです。

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帰路の時間調整もあり参道のギャラリーに立ち寄る。古い民家のファサードも一体となって集落全体がギャラリーを形成している。

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ここでもいくつかの日本に関わる出会いがあった。往路の電車で大阪の女性二人連れと、久しぶりの日本語。安全のため宿代が嵩むとこぼしていた。聖堂内では名城大学に在籍していた男性と管理の女性と仏語、英語、日本語のちゃんぽんで話し込む。途中の男女老アーティスト経営のギャラリーでは絵葉書大の作品をいただく。女性の息子さんは前橋に滞在中と言っていた。

 

この過去の見た未来を、その未来より遥かに遠くに来てしまったわたしたちが振り返るときの不思議な時間の感覚、つまり「過去未来感覚」がパサージュの本質なので有る。こうした「過去未来感覚」があるからこそ、パサージュの中の時間は濃密になるのだ。わたしはパサージュの中を歩くとき、たんに過去の人々が生きた日常に出会うのではない。日常を生きながら、同時に集団的な未来の夢を見ていた人々の意識に出会うため、よけいに切ない気持ちになるのである。

  「パリのパサージュ 過ぎ去った夢の痕跡」 鹿島茂/中公文庫