出会った橋ー塩の道−1
熊野古道歩きで出会った老夫婦は、車と電車を利用しながら全国各地を数日間ずつの歩き旅をしていた。夕食に同席した時「一番よかったところは」と聞いたところ、お二人揃って「塩の道」との答えが帰って来た。
年が明けるといつものようにアル中の症状が出てくる。なんとはなく塩の道を歩いてこようかと思い立った。そして、5月18日、練馬駅前0:00発の夜行バスに乗り込んだ。
新潟県の直江津で電車に乗り継ぎ、スタート地の糸魚川駅に6:39に到着した。糸魚川の街には半年前の大火災の傷跡があちこちに残っていた。
塩の道は海岸部から山間部へ塩などの生活必需品を運んだ江戸時代のインフラで各地に存在した。ここの塩の道は日本海から太平洋まで繋がっている。今回は長野県松本市まで千国街道を歩く。六日間120kmの楽な歩き旅と思えた。ところが、稀に見る暑さに襲われ二度も電車にエスケープする無様な旅でもあった。しかし、途上には有史以前から現在に至るまでの歴史にアプローチできる橋が架かっていた。
初日はご存知フォッサマグナである。日本列島はなぜ折れ曲がっているのか。日本アルプスはいかにして出来上がったのか。フォッサマグナミュージャムで予備知識を仕込み、先ずはエビデンス確認にフォッサマグナパークに向かう。
断層破砕帯を挟んで東日本の岩石(約1,600万年前)と西日本の岩石(約4億年前)が接している。二つの島がここで出会って現在の本州が出来たのである。
リアルな歴史のエビデンスに接し想像を絶する感動を覚える。
この街道を歩荷の人力や牛の背で荷物を運んだ。その歩荷が泊まった塩の道温泉の「歩荷茶屋」、小谷村瑞穂集落の江戸時代の民家を改修した農家民宿と歴史の痕跡の残る宿に宿泊する。更に白馬村へと進み神奈川から移住し、男手一つで30年間営んできたペンションのお世話になる。
翌日は同宿者の車に同乗させてもらい周辺をドライブし、ポツンと佇む長野オリンピックのレガシー?のスキージャンプ台に出会う。
5月22日、残雪の北アルプス連峰を右手に見ながら歩く。雪解け水の田んぼの影アルプスは疲れを忘れさせてくれる。
標高3,000mにも及ぶあの山々が海底から隆起したとはこれ又想像が及ばない。
信濃大町の塩問屋を活用した博物館『塩の道ちょうじや」には、嘗ての運送活動を忍ばせる資料が残されており、「ボッカ輸送規約」には80kmを24時間と驚くべき数字が見られた。
いよいよ安曇野に入り穂高町の宿を目指す。途中、等々力本陣に立ち寄る。本陣は初めてであるが殿様の宿だけに立派である。裏に回ると別棟に渡る橋が架かっていた。
下には水路も無く異空間へと渡ってゆくという演出効果なのだろうか。疲れのせいかつまらないことで感心してしまう。でもやっと記憶に残る橋に出会えた。
宿の「ごほーでん」は三階建ての一見豪華な建物で古い観光旅館かと思ったら築30年で、おまけに宿泊者はほとんど建設現場の職人である。
安曇野と来たらワサビ田と大王わさび農場に向かい、暑さしのぎに山葵ソフトクリームを食す。後ほどテレビで三日連続の真夏日と言っていた。
続く
今や通勤電車の車窓から沿線の風景を眺めている人も少なくなった。いわゆる「歩きスマホ」は危険防止上の禁忌ではあるが、人間は本来歩きながらさまざまの想像をめぐらしている。そうした貴重な時間まで、掌の中のロボットに捧げているように思える。(中略)
想像する時間を奪われ、急激に想像力を喪失した人類は、やがてごく特定の分野を除いておそらく正当な創造を停止すると思われる。
(中略)
人間は考える葦である。すなわち、考えてこその人間である。