歩くことは捨てること

サンチャゴ巡礼の話をすると「(辛い目をして)何故歩くの」と動機を聞かれる。私は一瞬戸惑いながら「歩くことが好きだから」と答える。

 

巡礼とは神の恵みを得る為に聖地へ旅することであり、キリスト教徒にとっては義務ではなく、熟慮に基づく自発的行為である。因みに、イスラム教徒にとってメッカ巡礼は信者として義務であり、巡礼を行わない教徒はアッラーの天国に入ることはできない。

そもそもの巡礼の動機は「自分を助けてくれるよう、病気を治してくれるよう等奇跡が起きる事を願う」「支配者が自分たちの目的を遂げるために、聖人の保護を求める」「宗教裁判所や教会から課せられた刑罰を償う為」「亡くなった人の代わり」「巡礼を口実に各地を放浪し生活する」等。(「サンティアゴ・デ・コンポステーラと巡礼の道」創元社  参照)

 

小野美由紀さんが著書(「人生に疲れたらスペイン巡礼」光文社新書)で巡礼途上で出会った人の言葉を紹介している。

「人生と旅の荷造りは同じ。いらない荷物をどんどん捨てて最後に残ったものだけがその人自身です。歩くこと、この道を歩くことは"どうしても捨てられないもの"を知るための作業なんですよ」

個人主義のヨーロッパらしく、人間関係はドライでフラット。基本単位は"一人"。なんと肌心地の良い距離感の間に漂っている。「ここは人間がちゃんといる。だから安心して一人になれる。」 

参考までに、西洋では神と個人の契約で成り立っている。だからファーストネームで呼ぶ。日本は世代間連携である。納得。(テレビで聞いた話)

 

私には確たる自覚は無いが自分自身を知りたくて歩いてきたのだ。永年にわたって溜まりに溜まったものを抱えて。安心して一人になる為に遥々ヨーロッパまで出かけてきた。聖地に到着した時の達成感の不在は未だ捨てるべきものを捨て切れていなかった為か。そして、年が変わるとまた出かけていた。

 

今回の巡礼途上でスイスのジュネーヴから来た若い男に出会った。システムエンジニアの仕事を辞め、荷車を引きテント生活をしながら約三ヶ月かけてサンティアゴ・デ・コンポステラを目指して一人で歩いている。住居は中心市街地の50m×50mの敷地に建つ二階建てだそうだ。私は巡礼の動機については個人それぞれの問題と捉え聞かないことにしている。しかし、興味はあるので勝手な空想は働かせている。そして、今どこで何をしているのだろうか。

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髭は聖地到着まで剃らないそうだ