出会った橋ーフランス人の道–2

 9月4日,Puente la Reina王妃の橋からEstella星に向かう。町の名に歴史の背景を残しロマンを感じさせる。歴史を消し去る日本の地名に虚しさを感じさせる。ブドウ畑の先の丘の上に中世の世界Cirauquiが浮かび上がる。

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 更に進むと一瞬フリーズされたかの様な風景に包み込まれる。200mとごく短い長さであるが約2000年前のローマ時代の石畳の道が未だに息づいている。そこには小さな橋もある。映像や書籍で出会った歴史上の世界に直接浸れた事に興奮を覚える。

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ゴールのEstellaで出迎えてくれたのはEga川に架かるCarcel橋である。アーチそのもののシンプルなデザインではあるが中世の印象を抱かせる。

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橋の中央が盛り上がっている為、橋のたもとに立つと舗装面の多様なパターンが立ち上がり現代絵画のように愉しめる。

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翌日9月5日は巡礼6日目である。目的地Los Arcosに向かう道の脇には刈り取られた干し草が高々と積み上げられている。何度かシャッターを切ったがどうしても右上りの構図になる。

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人差し指に力を入れる瞬間右側の腰を庇って無意識のうちに右半身が上がってしまう。出発から症状に差があるもののゴールが近づくと例の腰痛に襲われる。でも、様々の出会いへの期待が何とか前進を続けさせてくれる。

 

9月14日,この日も目的地のCarrion de los Condesに向かい身体を左に傾けたまま左方向に歩いていた。突然、後ろから声をかけられた。私の無様な歩き姿を見かねたのであろう。自分で使っていたストックを一本手渡し、これを使って歩けと言う。杖にも縋る思いでありがたい申し出を受け入れた。暫く話をしながら歩いて行くうちに、何と腰の痛みをすっかり忘れていた。崩れていたバランスが補正されたのであろう。宿が近づいたので礼を言いストックを返却した。

Carrionの町に入ると両側に店が続く。そして、その一軒に何とウオーキング用品専門店があった。早速店内に入る。こんな小さな田舎町にと思わせる品揃えである。迷う事なくlekiのストックをゲットした。

その時をもってこの巡礼から腰痛に別れを告げた。そして、今後に続く巡礼三昧に橋を架けてくれたのである。四国遍路ではお大師様のおかげを賜ったが、今回は十二使徒中最初の殉教者であるサンティアゴ巡礼の守護神聖ヤコブの ・・・・・・俄信者の呟きである。

 続く

 

どの民族においても、橋に対するイメージはだいたい共通している。橋は二つの異なる世界日常と非日常、此岸と彼岸を結ぶものであり、人生の困難の象徴であるとともに乗り越えねばならなぬ試練、また転換点であり、戦争における最重要地点、出会いと別れの場、ドラマの生まれる舞台である。

                   「橋をめぐる物語」中野京子/河出書房新社

 

毎晩8時になると目の前の"としまえん"の花火が鳴り響く。10分弱の短時間のイベントであるが、音を聞いているだけで何かホッとした気分になる。永年多くの人を楽しませた遊園地もいよいよ今月末で幕を閉じる。2023年に「ハリーポッター」でお目見えと正式に発表された。私としては、併せて整備される都の防災公園の方に期待をかけている。

 

出会った橋ーフランス人の道–1

2012年3月30日に四国88番札所大窪寺で結願。そして、その8月31日西仏を隔てるピレネーの山道を一人歩を進めていた。

帰京後の4月6日新宿紀伊国屋書店で「聖地サンティヤゴ巡礼」を目にし即購入した。その後、もっと情報をとガイドブック「Camino de Santiago」をアマゾンでネット購入する。

4月26日、サンチャゴ巡礼関連資料を入手すべく駐日スペイン大使館に出向く。

5月12日/5月19日/6月9日/6月16日流通経済大学NPO法人日本カミーノ・デ・サンティアゴ友の会主催のサンティアゴ巡礼の連続セミナーに参加する。

6月5日、新宿武蔵野館で米西合作のサンティアゴ巡礼がテーマの映画「星の旅人達」を観る。

6月23日,経験者の話を聞きたいと、上記NPO法人実施のカミーノ相談会に参加。

バカンスの明ける9月決行を決断し、具体的な行動計画をたて準備を開始する。

7月2日,パスポート取得申請。

その後、HISで格安航空券を、パリ/モンパルナス〜サン・ジャン・ピエ・ド・ポールのチケットをSNCFで、パリ深夜到着に備えBooking.comでホテルをネット予約。巡礼後のご褒美グラナダ訪問のアルハンブラ宮殿の入場とホテル予約。NPO法人からクレデンシャル(巡礼手帳)を取得。

四国遍路でピリオドと思っていたが、1週間後に偶然目にした一冊の本が残り火を燃え上がらせた。

 

  「フランス人の道」のスタート地サン・ジャンは標高170mのフランスの美しい村。8月30日,ナポレオンがスペイン遠征で通った道を1,300m登り標高1,450mのLeoeder峠に到着。早速暴風雨のお出迎えで避難小屋に退避。そこから500m下って標高950mのRoncesvallesに辿り着く。

予想通り腰にきたが、今後の出会いへの期待感が先行きの不安感を上回った。

2日目の9月1日、バスク語で「橋の村」を意味するZubiriに到着した。村の入口のArga川に架かるRabia橋を渡り村に入る。「狂犬病の橋」とも呼ばれる中世ゴシック様式の橋である。それなりのいわれがあるらしいが、残念ながら体調が順応していない私には、単に道路の続きにしか思えなかった。標高数百メートルの微高地を上下しながら乾燥した空気の中を進むこのルートには大きな川は見当たらず、どうも橋は主役の座にはつけないようである。

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ところが、2日後に主役級の橋に出会った。「王妃の橋」で町の名もそのままのPuente・la・Reina王妃の橋である。

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町の出口のArga川に架かる橋で、その名の通りその姿は優雅さを漂わせている。中世の佇まいを背景に一人静かに眺めていると、その時代の世界に入り込んで行けそうである。11世紀にこの地を治めるナバーラ王の妃が巡礼者のために架けたと言われている。当時、橋は少なく川を越えることは危険を伴っていたこともあり、今日に至るまで「王妃の橋」として語り伝えられてきたのであろう。

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続く

 

僕たちは絶えず過去の記憶を編集しながら生きています。新しい経験を加えるごとに、僕たちはこれまで意識の表層にあったいくつかの出来事の記憶をしまい込み、逆にこれまで思い出したことさえない過去のエピソードを引っ張り出してくる。

僕たちの記憶というのは、巨大な倉庫に膨大な作品群をしまい込んでいる美術館のようなものじゃないかと思います。

(中略)

 僕たちが誰かに向かって「自分についての物語」を語るというのは、いわば自分がキューレーターになって「自分の個展」を開くようなものではないかと思います。

      「街場の親子論」 内田樹×内田まん/中公新書ラクレ

 

 ウオーキングコースで出会う旧内田家住宅のケヤキは、今や目一杯に葉を茂らせています。

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近づくと暑苦しいまでの緑です。でも、強い生命力を感じさせてくれます。

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冬には、葉を全て落とし小枝だけの丸裸でした。この姿も又違った意味での生命力を感じさせます。

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出会った橋ー四国遍路-4

 四万十川は"日本最後の清流"とか、静岡の柿田川、岐阜の長良川と並んで"日本三大清流の一つ"として知られているが、科学的には際立って水質が良いわけではないらしい。

余談はさておき、3月10日、マリリン・モンローに出会える三十七番札所岩本寺から四国最南端足摺岬の三十八番札所金剛福寺の80kmのほぼ真ん中で四万十大橋を渡る。橋の上からは清流の真価は味わえないが、対岸に渡って振りかえって見た眺めはなんとも言えぬ清々しさを感じさせられた。雲ひとつない大きな空、澄み切った空気、広々とした河川敷、そしてカモメらしき鳥が横一線になりこちらに向かってくる。

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かつては河口の下田の渡しで川越えをしていたらしいが、1996年にこの橋が架かった影響で2005年に渡しは廃止された。その後地元有志「下田の渡し保存会」により2009年に渡しが再開されているらしいがガイドブックには記載されていなかった。知っていれば渡し舟を選択していた。

橋と言えば、あの「沈下橋」は四国の各地で見られるらしいが、ここ四万十川流域にはなんと47箇所もある。それを巡るだけでも愉しい旅ができそうだ。それにしても個人的ではあるが、「沈下橋」はいかにも四国の橋と言う感が拭えない。

ーー沈下橋に興味をお持ちになられた方は「四万十川沈下橋すべて見せます」でググってみてください。四万十町の公式You Tubeチャンネルで動画を見る事ができます。私感ですがデザインされた橋には見られない柳宗悦さんの言われた"用の美"を見た気がしました。ーー

 

愛媛県を歩き通し、3月26日の正午過ぎに空海の生誕地の香川県善通寺市に入る。同行していたお遍路さんは先に進んだが、私は金毘羅さんには寄り道したいと七十五番札所の宿坊に宿を取った。昼食後JR土讃線金刀比羅宮に向かう。785段の石段を往復し本宮にお参りを済ます。更に583段の往復をプラスすれば奥社にもお参りできたが、長旅の疲れと宿の夕食時間を考え遠くから手を合わせた。門前町を横切る金倉川を越えながら右に眼をやると,古風な屋根のかかった橋が目に入った。

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近寄ってじっくりと見ようと思ったが、ここでも遠くから眺めるにとどめた。後日インタネットで調べているうちになぜもうひと頑張りしなかったのかとの思いを強くした。

珍しいアーチ型の切妻型の銅葺き唐破風屋根で、その反り具合から"鞘橋"と言われている。膝栗毛にも「上のおゝう屋形の鞘におさまれる御代の刀のようなそりはし」とある。普段は立ち入ることはできず、金刀比羅宮の御旅所で行われる年三回の祭典にのみ使用される。 

屋根付き橋は雨や雪からの保護で三倍くらい長持ちするそうだ。屋根付きの橋といえば映画「マディソン郡の橋」やフィレンツェのポンテベッキオを思い出す。日本にも100箇所くらいあるそうだ。アメリカでは木材が入手しやすいため2000基くらいあるとか。

 

危惧していた途中リタイアーは何とか回避し、3月30日結願の寺八十八番札所を打ち終えた。念願であった一人旅の歩きによる通し打ちの達成は、我にとっての大きな区切りとなった。振り返ると37日1400kmの永くて短い旅であった。

その後弘法大師が入定した高野山奥の院へのお礼参りに向かった。大阪までのバス旅である。途中、1629mの鳴門大橋、そして工費5000億円吊り橋世界最長3911mの明石海峡大橋を渡ったが、心地よい眠りの中で見た夢の架け橋であった。

 

人は直立二足歩行をします。歩行中の大部分の時間は、片脚のみでの接地になるため、実は不安定な歩行様式です。このため歩行は全身運動になるのです。足首と膝、股関節の曲げ伸ばしと足の蹴り出し、腰の捻りから腕の振りまで、時間的、空間的に精密に制御されています。このうちどの要素に異常が生じても、敏速で効率のよい歩行ができなくなり、転びやすくなります。高齢化とロコモ*は'このように密接なつながりをつながりを持っています。      *ロコモ:運動器の機能不全

               「老活の愉しみ」  帚木蓬生/朝日新書

 

  永かった梅雨がやっと明け、青空の下を歩いている。ある朝、面白い雲に出会った。雲の名前や天気の前兆には殆ど興味を覚えないが、立ち止まってしばらくその姿に魅入っていた。

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アレ!いつか何処かで出会ったことがあるぞ!そうだ、三年前に歩いた「塩の道」で出会ったあの風景だ!大袈裟かもしれないが峰々に残雪を抱いた北アルプスの眺めだ!

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出会った橋ー四国遍路-3

3月6日,二十八番札所から三十六番札所に向かう。宇佐市のはずれで内ノ浦湾が大きく入り組んでおり、三十六番札所は対岸の横浪半島にある。遍路が始まったと言われるとき以来1200年にわたり渡し舟がお遍路さんを渡していたが、昭和48年に宇佐大橋が架橋された。その先は横浪スカイラインに繋がっている。この橋、直線が合理的と思うが何故か大きく迂回している。何か理由があるのだろうが未確認である。しかし、手前の橋の下から同じ橋を覗き見るとなんと無く絵になる。

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渡り始めたところで、暫く治まっていた腰痛が発症した。札所まで約1kmに近づいていたので、我慢の一念で歩き続ける。そして目の前に学校が現われた。明徳義塾高校とあり元横綱朝青龍の出身校であった。そこから40mの登りが待ち構えていた。やっとの思いで札所の青龍寺に辿り着いた。朝青龍のシコ名はこの寺によっているそうだ。宿の国民宿舎は少し下ったところであるが、宿の迎えのバスが止まっているのを見かけた。先日のフェリー乗船を除いて遍路道から数百m足跡が消えることとなった。

 

3月8日,内陸部を進んでいると上空をを高架道路が横切っていた。下には水面が無いがこれも橋である。四国横断自動車道である。下を潜りながら大学のワンダーフォーゲル部で四国を自転車で一周した時の事を思い出した。

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当時の四国は道路網が未整備で当然なことながらこの様な道路は無かった。そして、幹線道路を走っていても舗装がされているのは市街地内、橋上、トンネル内ほんの限られた部分のみで、自転車とは言え大変な旅であった。今では、立派な道路が景観の一部に溶け込んでいる。道路一つ眺めていても昔日の感に堪えない。

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続く

 

歩いていれば、記憶が消えることはない。世の中を見ることは、自己を探究することと同義だ。歩いて行けば、とても簡単に世の中に出て行けるし、自己の中に入り込むこともできる。ジャン・ジャック・ルソーは歩いている時にこそ瞑想できると考えていたので、こういう文章を残している。「立ち止まれば考えが止まる。心が動くのは、両脚を連動する時だけだ。」

            「旅の効用】ペール・アンデション/草思社

出会った橋ー四国遍路-2

2月25日,難所遍路ころがしをクリアし、標高700mの12番札所焼山寺で般若心経を納めた後、今夜の宿「プチペンションやすらぎ」に向け長い下りに入る。ところが危惧していた腰痛が再発し、宿まで2kmの河野橋で我慢がならず宿に迎えの電話を入れる。歩き遍路を貫徹したいと言う意地から迎えの車にバックパックを預け、歩いて宿に向かうことし真っ暗な道を宿に辿り着いた。今様に言うと第1波は治まっていなかった。

その後は幸いにも痛みに苦しむことなく高知県に入る。3月2日には室戸岬の24番札所最御崎寺で納経を済まし、宿坊の26番札所金剛頂寺に向かった。

その後痛みを忘れ雄大な太平洋を左に見ながら西へ西へと順調に進む。

遍路では民宿を主とし色々な宿を楽しむことができる。宿坊、ペンション、国民宿舎、旅館、ホテル、善根宿等々。中でも家族で経営する民宿がそれぞれ特色がありお勧めである。

高知市手前の香美町の28番札所大日寺の先に「遊庵」と言う良い民宿があると教えられた。即、携帯で予約を入れた。リタイアした松山の人がご夫婦が営んでいる小さな小さなお宿である。遍路中に宿泊した40弱の宿のマイベストである。説明は抜きにして写真で想像して頂きたい。

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ご夫婦と話しているうちに急遽連泊へと予定変更する。翌日は空荷で高知県営フェリー種崎渡船場まで歩き宿の主人の車で宿に戻った。明くる日早朝にそこまで送り届けてもらい遍路を続けた。

歩き遍路は自分の脚を頼りに歩き続けるわけであるが、遍路道が水路で遮断された場所は止む無く渡し舟に頼った。前日のゴール地点は高知港のある浦戸湾の湾口でその場所に当たる。嘗ての渡し舟今ではフェリーに代わり無料で対岸に渡してくれる。田中陽希に倣って人力踏破を全うするなら少し下流に桂浜に向かう橋を渡ることができるが、昔からの遍路道に倣いフェリーに乗船する。早朝の冷え込んだ空気の中を進む。右手に朝靄に煙る高知港のクレーン群が現れる。幻想的な眺めである。

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左に目を移すと、朝焼けを背景に天空に架かる架け橋を想わせる浦戸大橋が目に入る。後日の調べるとトーキョーゲートブリッジももらった土木学会田中賞を受賞しているそうだ。その事実を知らなくとも美しい橋を実感した。橋上からの展望が素晴らしいとのことであるが、その構造上自殺の名所になっていると言う。

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この橋は歩いて渡る橋ではなく遠く海上から眺める橋である。選択に誤りは無かった。対岸で下船し感動の余韻を抱えながら33番札所雪蹊寺へと向かう。

     

22日、行きつけの八重洲地下街の歯医者に検査に出掛ける。ほぼ5ヶ月ぶりに都心である。不要不急ではないが、自粛疲れもあり感染予防の為出勤時を避け9時過ぎに地下鉄に乗車した。ほぼ座席が埋まるぐらいで全員マスク着用。うっかりマスクを忘れていたら冷たい視線がブスブス突き刺さったのではとゾッとした。目的地の最寄り駅から約10分位外を歩いている時には3〜4人のノーマスクを見かけた。

歯医者では異常なしの華丸を頂いた。因みに、今朝テレビで歯周病が新型コロナ感染の重症化リスクが高い?と言っていた。

次にプリンターの用紙の補充の為数寄屋橋ビックカメラに向かった。このブログを書いているIPadがよる年波で買い替えを考えており、店員とは間隔を保ちながらゆっくりと説明を聞いた。客が疎らなのでAIに弱い私にとっては好都合だった。

次に企画展TDC2020のギンザ・グラフィック・ギャラリーに久しぶりに立ち寄った。

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新橋地下街にさかな専門の7〜8人カウンター席の店があり、近くに出掛けた時によく立ち寄っていた。昼食時をちょっと過ぎていたので寄ってみた。客は3人で密ではなかったので入店した。繁雑時に間隔を空けている様子も無く消毒液も備えていない。これが実態かとチョットばかり気になった。

深く息をしながら歩く私にとっては長時間のマスク着用での歩行は重労働?だったが、テレビで毎日映し出されていた街中の様子に直に接した貴重な半日となった。感染予防には十二分に配慮していたが、結果が出るのは2週間後である。

私のささやかなGo To トラベルであった。

 

23日夜、突然パンパンと弾ける音。ベランダに出ると向かいの建物の間に花火。地域に馴染んできた"としまえん"が8月に幕を閉じるに当たっての惜別の挨拶か。それとも、新型コロナ禍の厄払いか。

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出会った橋ー四国遍路-1

先日、図書館から「世界の橋の秘密ヒストリア」と題する本を借り出した。世界各地の橋梁を写真付きで解説したものである。スケール、構造、デザイン、そして歴史等々詳細に述べられている。しかし、ページをめくっているうちに、どうも期待していたものと違うなと思うようになった。内容は素晴らしいものの自分との接点が見出せないことにあると思い至った。

私はここ数年の歩き旅で様々の橋を渡り眺めてきた。多くは片田舎の普通の橋である。写真と言う記憶の引き出しから手招きをしている。そこで、その引き出しを開けてみることとした。

定年退職後、第二の職場で都市開発と言う願い通りの業務を担当した。しかし、数年後に左膝に異常を覚え、歩行に困難を感じるようになった。止む無く職を辞し治療、リハビリに専念することとした。リハビリの効あって3年後には100%とは言えないが、普通の歩行が可能となった。そこで、回復の度合いを確かめる意味も含め、一度は諦めていた四国遍路への挑戦を思い立った。そして、2012年2月23日第1番札所霊山寺の門前に立った。70代と言う年齢も考え途中リタイアも辞さずの覚悟であった。これが、その後8年間の国内外の歩きによる一人旅のスタートとなった。

前置きが長くなったが橋をKEYにしてその記憶を引き寄せる。読んでいただく方には私が前述の本に出会った時と同じ思いをされるかもしれません。その時は遠慮なく電源をOFFにして下さい。 

遍路2日目は温泉付きの宿第6番札所安楽寺から第11番札所藤井寺に向かう。久しぶりの長距離歩行に疲れを感じるが順調にお詣りを進める。10番札所切幡寺を出て四国三郎と異名を持つ吉野川近くに至り右腰に痛みを感じ出した。左膝を庇う為、無意識に右側に重心を片寄て長距離を歩いた来たせいらしい。痛みを和らげるべく左脚を蹴りだす様に歩き出したせいか、真っ直ぐ歩いているつもりが左方向に進んでいる。少し歩いては休んで方向修正をする。吉野川にたどり着きそこに架かる橋をやっとの事で渡りきり、対岸の土手に登り座り込む。少し落ち着いて橋に見返すと二人連れのお遍路さんが歩いて来る。そしてその橋にはコンクリートの床版はあるが欄干が無い。

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後で調べると橋の名は川島橋。地元では潜水橋と言われている沈下橋で洪水時に水面下になる。因みに吉野川は日本三大暴れ川言われている。納得!

かつては少し下流に渡し舟道があったそうだ。交通事情により架橋するにあたって工事費低減、工期短縮等の為、広い河川敷の水流のある部分のみにシンプルな橋を架けた。欄干が無いのは洪水時に流木等で橋が破壊されたり、川がせき止められ洪水発生を防ぐ為という。四国では多く見られるらしい。

橋の能書きはここまでにして、その後右腰の痛みは不思議と収まり無事宿舎のふじや本家旅館に到着した。そして翌日の最初の遍路ころがしの山越えに備えて夕食後早々に床に就いた。この橋が私の記憶に強く残っているのは

遍路道の橋の上では杖をついては金剛杖をついてはならないと言われている。橋の下では弘法大師が休んでおられるからである。その言い伝えを守って両手で杖を抱えて橋を渡った。その痛々しい姿をお大師様が目にして私に痛み止めのお慈悲を与えてくださった。と、始まったばかりの遍路の今後の道程を思い、信仰心の希薄であった私が仏に思いを強く致した瞬間であった。

続く

 

リアルな体験をしない限りどうしてもつかめないリアルな現実というものがある。旅というのは、そのリアルな現実認識に不可欠な一つの手続きなのである。旅という作業を経ないかぎり、われわれは肉体に付属している「全方位的・全感覚的リアルな現実」認識装置を現場に運ぶことはできないのである。

        「思索紀行  僕はこんな旅をしてきた」 立花隆/ちくま文庫

 

7月10日 何処で 何を

2015年7月10日

Sevillaを出発地とする「銀の道」巡礼の後の旅は、過去三回の旅で残されたスペイン訪問希望地を巡る旅である。4日にTarragonaを後にオレンジやパエリアでお馴染みのValencia,ピカソの生地Malaga,白い村Mijas,アフリカへの港町Algeciras,アフリカでに足跡をとモロッコのTanger,断崖絶壁の町Ronda,そして、8日にSevillaに無事帰着した。年齢や気力、体力から考え今回の旅がスペイン最後の旅となる予感があり、やや欲張ったスケジュールとなったが、これでほぼスペインが私の記憶の中に収まった。

 

10日、帰国に向けてバスでMadridに向かう。窓外に黄色に染まった向日葵畑が延々と続く。

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強烈な陽射しのためか腕前のせいか写った写真は違った印象となっている。

ここはアンダルシアである。バスの中は涼であるが、外は40度を越える荒涼とした大地である。

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Madrid到着後、あちこちで演じられているストリートパフォーマンスを楽しみながら街をぶらつく。

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11日夕方の便で 日本に向かい、12日夜成田に到着し64日の永い旅に終止符を打つ。

 

どんな旅も年齢を問わずできるけれど、ある年齢でしかできない旅というものも、絶対あり得るんだよね。お金も経験もない二十代の頃に焦燥感を抱えながら異国を歩く旅と、定年後ゆったりとした気持ちで出かける旅とでは、濃度や質がまったく違うような気がする。もちろん、どちらが良い悪いという問題ではなくてね。教訓的な言い方になってしまうけれど、人生のある時にしかできない旅に出かけてみることは、かなり大切なことじゃないかな。

          「沢木耕太郎セッションズ<訊いて、聴く> 2 青春の言葉たち」 沢木耕太郎編著/岩波書店