一期一会を楽しむ

NHKブラタモリが異例の3週にわたって高野山を取り上げた。私も昨年末九度山から町石道を経て高野山に入り熊野古道小辺路」へと抜けた。番組の中身は結構濃く再度の訪れの誘惑に駆られた。

東京新聞夕刊で俳人黛まどかさんの四国遍路体験が「同行二人」と題して本日連載完了した。ガイドブックやもどきに見られるような参拝寺院や遍路上の風景、ましてや途上の観光地やグルメ紹介もなく、道中のつらさやそれを乗り越える度の心の変化、そして地元の人や巡礼仲間との出会いが文の大半を占めている。私も2012年の四国遍路以来毎年ロングトレイルを経験してきたが、文章として残すとすれば稚拙は免れないが同じ様な文脈となろう。目的地到着時の達成感よりも、途上での出会いや出来事の方が数倍感動を呼ぶし後々まで記憶に残る。

ロングトレイルの場合歩行ペースや宿の立地の関係でほぼ決まった人との出会いがパターン化する。それも時に何かのトラブルで変化が起こる。自分の場合だと同行者がガラッと入れ替わる。寂しさの一方新鮮さが味わえる。そうでない場合は言葉を交わしたことのない人でも「あの人はどうしたのだろう」と気にかかる。本人から話し出さない限り暗黙の内にプライバシーに関することは聞かない。しばらく一緒する内に自然とお互いを知り合う様になる。その辺りの文が文中に散りばめられており興味深い。特に外国人との出会いが多く、そこでのやり取りがスペインでの経験を思い出させる。

「日本人は何故そんなに急ぐの?」「日本人は何故計画通りに動くの?」

殆どの出会いが今では一期一会と成っているがそれもロングトレイルの楽しみである。

スペインではしばしば巡礼中にできた外国人ペアに出会ったが、彼らには「一期一会」の奥深さは理解できないだろう。

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一人旅同士で目指したうどん屋は本日休業  観音寺市  2012/3/25

 

 

 

 

 

 

 

 

回り道

以前ラウンド・アバウトについて書いたことがあるが、最近その仕組みをわかりやすく書いた文章に出会った。少し長くなるが紹介しよう。

 

イギリスでラウンド・アバウト、フランスではロン・ポアンと呼ぶ。

具体的に言えば、交差点が環状道路になっている。車は一時停止の後その環状部分に入り、ぐるっとまわって目指す道に出る。

信号機の十字路と違って、ロン・ポアンでは大事故は起こらない。直進できないのだから正面や真横からの激烈な衝突事故は起こりようがない。一度止まって左を見て、車がいなければゆっくり進入する。常に中にいる車が優先。

もう一つの利点は十字路だけでなく三叉路でも五叉路でも七叉路でも造れることだ。出口ごとに行く先が書いてあるから、目的地の地名が頭に入っていればロン・ポアンを次々に辿って自動的にそこに行き着ける。ロン・ポアンの中で迷ったらもう一周して出口を確認してから出ればいい。Uターンも簡単。

信号のように車が来ないのに待たされるという無駄がない。交通量が多いところのロン・ポアンは大きく造ってあり、たくさんの車を裁けるようになっている(それでも渋滞は起こるが)。

また信号機と違って故障しないし、メインテナンスもいらない。

電気代もかからない。

では欠点は何か?場所を取るのだ。広い敷地が要る。

だから日本に普及しなかったのかどうか。沖縄にはアメリカ軍が持ち込んだロータリーが嘉手納と糸満に一つずつあるけれども、どちらも信号機を設置して事実上ロータリーではなくなっている。         

    「セーヌの岸辺」 池澤夏樹  集英社 2008/9/10

 

しかし、日本でも2013年の道交法改正で「環状の交差点における右回り通行」との定義の元に運用が開始され、本年の5月末現在全国で67箇所で運用されているそうだ。

広い土地が無くとも大丈夫。参考として「ポルトガルの道」途上の小さな集落で私が見かけたラウンド・アバウトを紹介する。

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Spain Pontevedra近郊のラウンド・アバウト?   2013/5/24

ラウンド・アバウトを英和辞典でひくとロータリーの他に形容詞で"回り道の"があった。形状が丸いからではなく、"急がば回れ"から名付けられたのであろうか。

 

 

伊勢へ七度(たび)熊野へ三度(ど)

信心深い事の例えだそうだ。私は四度と五度訪れており信心深さに今一歩と言うところか。内田樹×釈徹宗著の「聖地巡礼 Rising」を読んでいて、気になったコメントがあった。ご両者が数人の仲間と熊野古道を巡礼しながら対話をしており、その中の熊野那智大社の"那智の滝"に関するものである。 

地元のナビゲーターのコメントーーー「東京の根津美術館に「那智の滝図」という国宝の絵があります。昔、それを見た作家のアンドレ・マルローが本物をぜひ見たいといってここまで来たことがありました。正確な表現は忘れましたけど、「那智の滝は下から上昇している」といった意味のことを言っていたそうです

内田樹さんのコメントーーー遠くから見ると普通の瀑布にしか見えませんけど、近寄って見ると変わった滝なんです。(中略) その時オーロラみたいな不思議な模様が見えて、それを五分間ぐらい見ていたら、ちょっと気持ちが変になった。目をフッと下にずらしたら、岩が全部動いて見えたんですよ。グニョグニョと浮き上がって見えた。

又、昨日の東京新聞夕刊にはーーー落下する水が強風になびいて、竜のように見える。この滝に神が宿ると感じたいにしえの人に共感した。

そして、私は一昨年の熊野古道巡礼中の5月20日のブログに「滝を見ていると竜が次々と下ってくるように見える。」と記している。

 ひとによって見え方は異なるが、何れにしろ何か霊的なものを感じているようだ。「場」に対する認識からか、それとも 真に霊的なものが発せられているのか。

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熊野古道中辺路「那智の滝」  2016/5/19

旅に出る訳

最近毎年国内外でロングトレイルに出かけている。それも年甲斐もなく一人歩き旅。何故かと問われてもうまく説明できない。しかし、旅に関する本を闇雲に読んでいる内に「これだ!」と言う書き物に出会った。少し長くなるが安易との誹りを免れないが転用させて頂く。

 

なぜ軟弱なのか?

それは連むからである。一人で歩かないからである。"孤"となりえないからである。

中略

孤を知るにはどうすればいいか。

さまようことである。

旅をすることである。

その理由を旅人に問えば、十人の旅人から十の異なる理由が帰ってこよう。

さほど旅とは個人的なものだ。旅で出逢い、旅で感じたことを誰かに語ろうとしても、そのときの情緒。、感情は真に伝わりにくいものだ。旅はあなたの生の根底に潜んでいるものを引き出し、そこに立たせるからだ。

旅人にとって大切なことのひとつに五感を磨いておくことがある。

足を踏み入れた土地を、目で、耳で、鼻で、舌で、肌で、知覚することだ。

                       「旅人よどの街で死ぬか。」    伊集院 静   集英社

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「北の道」Mondonedo〜Vilalba  2014/6/18

 

 

 

南蛮道路交通事情

最近、自動車事故の頻発が気になる。

サンチャゴ巡礼でも歩車未分離の幹線道路では事故と隣り合わせで歩くことになる。すぐ脇を自動車が猛スピードで走り抜ける。警官OBのフランス人と同行時には、道路の右側や車道寄りを歩いて何度も厳しく注意を受けた。スペイン人のグループと一緒の時には、車が近づくと皆んなが一斉に"Coche"と叫んだ。

郊外の交差点はご存知ラウンドアバウトで、信号なしで見事に車が捌かれているが、歩行者にとっては大回りとなりあまり歓迎できない。しかし横断歩道の近くで歩行者が目に入ると、咄嗟にスピードを緩めじっと通過するのを待ってくれる。自分が巡礼者であるからではなく、車と歩行者の関係が日本とは異なるようである。余談であるが夜行バスでの移動時には、スピードを緩めないでラウンドアバウトを通過する為、身体がよじれその度に目がさめる。

巡礼後にはバスで各地を移動した。その時気になったのはバスの運転手が平気でスマホで通話したり、ハンドルの上でいじったりしている。又、最前席は地元利用者の優先席らしく、入れ替わり立ち替わり席を占める地元民とドライバーは世間話に余念が無い。単調な風景の中でのドライビングには気分転換に必要なのかもしれない。

幸いなことに滞在中事故には遭遇しなかったし、現場を見かける事も無かった。

ポルトガルの自動車道専用道路で時々見かけたジャンプ台?。確認はできなかったが、下り坂の先にあることからブレーキ事故対策装置と推察した。

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スペイン国境の街Bragancaに向かう  2013/5/29

旅の安心・安全

最近バルセロナで起きた出来事には少なからず 他人事ならぬものを感じた。

一昨年「銀の道」歩いた後今回がスペイン最後の旅との思いがあり、二週間かけて鉄道とバスで各地を訪れたが、バルセロナでは4泊しガウディの作品巡りをした。その時の宿が事件発生場所から近く、現場付近を何の心配もなく往来していた観光客を日常的に眺めていたのを思い出した。

巡礼を始める前には高齢者の長期にわたる外国一人旅と言うことで、旅先での安心・安全には色々と配慮を巡らせた。いざ出かけてみると コミュニケーション不良以外には国内旅行とは大きく変わったことはなく、日本にいる時のあの煩わしさが無い分心の安定感が得られたと感じた。しかし、今にして思えば日々の行動にある意味での心の緩みがあったのでは無いかと思える。幸いなことに数度の巡礼を無事に終え今に至っている。巡礼は基本的に殆ど他人に出会わない道をたどるので、一人で歩けば何かが起こっても不思議では無い。しかし、私個人の経験としては問題となるような出来事には出会わなかったし、聞き及んだ事も無かった。

「銀の道」の最終日にサンチャゴの大聖堂に向け鉄道を超える陸橋を渡っていると、その鉄柵に花束などで色とりどりに飾り立てられていた。同行していたフランス人の説明で、2年前に77人の犠牲者を出した鉄道事故現場がその先に見えることを知った。そう言えばそんな事があったと言う自分の反応に少なからぬ不安を覚えた。又、犠牲者を悼む品々の色鮮やかさには"私たちは今でもあなた達と一緒だ"と言う心暖かいメッセージを感じた。

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鉄道事故現場を望む陸橋   2015/06/26 

スペイン料理と言えばパエリャ

日本人にとってスペイン料理と言えばパエリャであろう。ところが益野 碧さんの「スペイン・ライフ」においては、オリーブのタイトルの中で300字にも満たない記述である。ところが、"トルティリャ"はタイトル付きで1,000字弱。これでいいのだろうか。いや、これが現地感覚なのかもしれない。

「パエリャはいかにもスペイン的で美しい料理だ」に始まり、材料の説明があり

「パエリャは、重い食事とされているので、ピクルスを添えたり、食前のアスパラガスが出る程度で、この一皿のみで充分といわれる。」と素っ気ない。

ところで、スペインのレストランで注文しようとすると、"2人前から"とくる。せっかくだから2人前を注文すればと思われようが、ご存知のようにスペインでの1人前は日本での2人前に近い。従って一人旅の私は2回ぐらいしか食べた記憶がない。一度は「ポルトガルの道」を歩き通した日に、一緒にゴールしたイタリア人の誘いでフランス人を含めた四人で食べた。大きな平底鍋に豊富な魚介類で、日本での鍋料理を囲む感覚である。

もう一度は「銀の道」のサラマンカの手前の街でイタリア人とパエリャ専門の店での夕食。出てきたメニューに数種類のパエリャが並んでいる。なんとスペイン語に並んで英語、フランス語、イタリア語、ドイツ語に続いて日本語。特段の観光地ではなく、巡礼者の通過は年間約1,200人で、統計から類推するに日本人はその0.5%にも満たない数人に過ぎない。スペイン語が話せない悲しさで、未だ謎のまま。参考までに注文は ボリューム満載の1人前からOKでした。

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Bonos de Montemayorにて     2015/06/06